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作家、Aマッソ・加納愛子に“可能性”はあるのか?

 いまや、出版社・書店が主導するどんなブックフェアよりも、「読書好き芸人」での紹介が売り上げに影響する時代。なかでもカズレーザーは別格で、(番組こそ違うものの)3月放送の「シューイチ」でおすすめした『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』は、放送当日に市場在庫から推計1万5000部が捌けたという(出典:『本の雑誌 2021年5月号』p.95)。

 それほどの状況だ。文芸の世界が、芸人の書き手を喉から手が出るほど欲しがるのも自然なことだろう。芸人の影響力の強さに、出版界は大きな期待を寄せている。そんな期待を、書き手として急先鋒で引き受けているのが、Aマッソの加納愛子である。『文學界 4月号』に収録された『ステンドグラス』からわずか1か月後、新作の短編小説を『文藝』で発表した。この記事では、そんな彼女の現時点で最も新しい短編小説『最終日』について、批評めいた手つきで書いていく(前作『ステンドグラス』についての受け止め方は後述)。

女子大生のワンシチュエーションノベル

 批評めいた手つき。なんて振りかぶっておきながら情けない話ではあるが、まずは簡単にあらすじを記す。一文芸誌に掲載される短編小説、つまりごく一部の人しか目にしない小説について書き連ねていくわけだ。まずはある程度の前提知識についての共有があってよかろう。スターウォーズについて語るのとはわけが違う。というわけで、あっさりと起こす。

女子大生の柳川は、就活のさなか“自己規定”に悩まされている。流行りの映画を観に行っちゃう私。流行りの服は着たいけど避けたい私。浅い交友をする私。それをSNSに載せる私。いや、そんなのは決して載せるもんか、の私。理想通りじゃない私……。
私は自己を規定するあらゆる判断に疲れて「最終日の私」になった。最終日の私は、あらゆる最終日に出向き、そこでの様子を「最終日」という名でSNSに投稿する。
今回出向いた最終日は、地元の市立美術館で開催される美術展覧会。長蛇の列に並んでいると、20メートルほど先に同級生の雨宮の姿を発見する。DMで連絡をとってみたところ……。

 物語の起承転はおおむねこんなところだ。

相対化の二重構造

 あらすじに登場する雨宮という人物は加納愛子の言葉を借りれば、どんな時も“雨宮をやってる”同級生。どういうことか、あえて卑近な言葉を持ち出すと「自分を持っている」人物だ。

 例えば

《イチゴフェア最終日、人すごい! 全部かわいい! 食べれない(食べるけど)》

 と、予防線を張ったSNS投稿をする柳川に対して、雨宮は美術館に飾られた絵を観に行った際に平然と

《あの娘の瞳に映りに行こう》

 と投稿できるタイプだし、

 同じ行列に並ぶ雨宮へDMを送り、その後も雨宮の動向を気にし続ける柳川に対して、雨宮は柳川の存在を一切気にすることがない。

 雨宮はいつも雨宮。常に自分の目だけで生きているのだ。

 他者の目線を気にも留めない(という意識すらない)存在として雨宮というキャラクターは造形される。そんな雨宮に物語上与えられた役割は、主人公の柳川とLINEのやりとりをするだけ。しかし、そんな彼女の一つひとつの振る舞いが柳川を相対化させ続け、クライマックスのある行動に間接的に大きな影響を与える。

 これは要するに、柳川個人が日常的に「自分」と「自分以外」の相対化をしていると同時に、「最終日」になった柳川が「最終日としての自分」と「雨宮さん」を相対化しているというわけだ。ミニマル、そしてマキシマムな切り取り方で主人公柳川の自意識を描いているわけだ。この試みは「美術館で長蛇の列に並ぶ」ワンシチュエーションという設定上の縛りによって成功している。この偏執的ともいえるほどの相対化の二重構造が柳川というキャラクターの内面性を浮かび上がらせている。

 繰り返しのようだが、あらすじでも取り上げた柳川の逡巡(繰り返される「〜〜な私」)に顕著なように、彼女はとかく自己規定の袋小路に囚われており、そうした事態を脱却するための手段が、「最終日」をある種の装置として持ち込むことだった。

「最終日」を装置として持ち込むことは、自分以外に意思決定の基準を委ねるということ。言うならば、自分に向けられた見る・見られるの意識からの解放として機能する。(厳密にブレヒト的な意味ではないが)異化作用を日常に持ち込んで、自分の感情をコントロールしている主人公の内面性が、あらゆる設定をもって表象されている。

加納愛子『最終日』が描くもの

 そうした緻密な物語設計で加納愛子は何を描こうとしていたのか。それは作中に頻繁に登場する「目」に違いない。

 上ですでに触れたような他者からの視線=目で「相対化」をする主人公(卑近に書けば、「うち、どんな風に見られてんねやろ~、いや、そんなこと考えてるウチきっしょ~」的な)の内面性だけでなく、主人公たちが訪れている美術館に飾られた絵についての描写で、「目」というモチーフを顕在化させていることが、『最終日』が「目」についての物語であることを強固に証明する。

 登場人物の二人が並ぶ美術館に飾られている絵はフェルメールが描いた『真珠の耳飾りの少女』。北のモナリザとも称されるこの作品の近代画史上最も偉大、といっても過言ではない傑出点は、目に入れられた光線だ。いわんや、フェルメールはレンブラントに勝るとも劣らない光の魔術師として知られている。フェルメールは少女の目に不自然なハイライトを入れ、『真珠の耳飾りの少女』の絵を完成させている。本来の光線ではあり得ないハイライトを目に描きこんだことで(より厳密に書けば真珠に施された精緻な光線も相まって)、今にもこちらに話しかけてきそうな、それでいて、どこか遠くを見ているような、あのえもいわれぬ表情を作り出したのだ。

 小説『最終日』で加納愛子が『真珠の耳飾りの少女』を舞台設定に組み込んだのは、決して偶然ではない。その証拠に、物語の終盤、絵画の目をめぐる描写は、他のどの場面よりも艶かしく、アングルをずらせば蠱惑的ともいえる角度で連発される。

《少女の瞳にやなさんが映っちゃう!》
《きた》
《目が合ったよ》
《見てるよ。向こうも私を見てる》
《おかしくなりそう!!! 二人の目が合ってるなんて!!!》
《見たよ》
《わたしは見たよ》
《彼女はなにを見てた?》
《私は最終日に彼女を見たよ》

 普段舞台上で客からの目線を集中的に浴び、周りの空気に目を配り、ときに一般人からの好奇の目にさらされる芸人という立場だからこそ、主眼が入り組んだ目線を執拗に描いたと考えるのが自然か。もちろん推測の域を出ないが、そう考えるのも不自然ではないだろう。だとすれば、『最終日』は芸人・加納愛子が作家・加納愛子として、書き落とす必然性のあった物語だといえる。

 また、『最終日』というタイトルの漢字にも「目」という字が隠されていることは指摘するまでもないだろう……って、これは、俺がいま思いついた偏執的かつ思いつきの発想だ……。

 そんなわけで、そろそろ長くなってきたので次に続ける。いや、Webなので実際は理論上無限に書ける。とはいえ、何事にも限度がある。日々の飲酒量みたいなものだ。

小説家・加納愛子の可能性

 さて、ここにきて大仰な見出しである。とはいえ、触れておかないわけにはいくまい。なんと言ったって『ステンドグラス』を読み終えた時点では、彼女の書く小説について「ん?」と首を傾げる箇所が多々あった(詳しくは後述)のだ。そこからの『最終日』。化けた。並々ならぬ進化が窺えた。想定外だった。読み終えた時点では、ただ驚いたというのが正直な感想だ。

 例えるならば、前走で4角を曲がりきれず逸走した掲示板外の馬が、今回は利口な走りで3着争いに加わってみせたといったところだ。「そんな馬買ってねーよ!」「そんな走れんのかよ!」といった具合である。

※誰もが知っているわけではないテーマで例えることで、物事をよりわかりづらくする好(悪)例。だが続ける。

 とはいえ、『最終日』を読んだ今も、加納さんの小説が世に数多く発表されている他の小説と比べて「ズバ抜けて素晴らしい!」と絶賛できる小説だとは、まだ感じられていない。しかし、前作と今作の完成度を比べたとき、この先々加納愛子が小説家として重賞出走を果たすような存在になっても、なんら不思議ではないと思えるほどの圧倒的な進化があったことも事実なのだ。

※誰もが知っているわけではないテーマで例えることで、物事をよりわかりづらくする好(悪)例。もうやめる。

 と、頭と手が遊び始めたところで終わりとする。とかく新作の発表が今から楽しみである。作家、加納愛子の可能性をこれからも追っていきたい。もちろん、お笑い芸人としても。しっかりと見させてもらいます。

(了)

『ステンドグラス』について

『ステンドグラス』についての詳しい感想は『東京西側放送局』というインターネットラジオで配信した。興味をお持ちいただいた方は、こちらもぜひ。


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