なをこ

2019年に余命1ヶ月からのV字回復をした、元・看護師です。 いまも治療中ですが、末期…

なをこ

2019年に余命1ヶ月からのV字回復をした、元・看護師です。 いまも治療中ですが、末期からの劇的回復に至るまでの気づきとか、副作用との付き合い方とか、ぼちぼち書いて行けたら良いなと思ってます。

最近の記事

余命一か月だった私へ~迷走編⑥~

話は2016年ごろに戻ります。 そもそも、なぜ乳がんと診断されたのに、手術を拒否したか。 ある人から言われました。 「体の中にがんがあるのに怖くないの!?私ならすぐに取り除く」 多くの人がそう思うから、患者さんは絶えないのだろうと思います。 でも私は、手術が解決策ではないと感じていました。なぜなら、たとえ手術で取り除いたとしても、がんを作る原因となった身体や心は、そのままだったからです。自分自身が変わらないと、再発するだろうなと考えていたからです。 そして一番の理

    • 余命1ヶ月だった私へ~治療編⑤~

      抗がん剤点滴の日がやって来ました。 いままでほかの患者さんを見てきたけど、苦しむ印象しかないので、私も苦しむのかと怖くてガクブル状態でした。 いろんなスタッフの方々に、良くなるように祈っといてください、と言いまくりまして、ドクターにも言いました。すると、立ち止まり、手のひらを私に向け、「治れ~~~~!」と、ハンドパワーを送って行かれました。ありがとうございます(笑) この時にそなえ、商品もなるべくたくさん摂っていましたが、どうなるか分かりません。治療を承諾していただき、身

      • 余命1ヶ月だった私へ~治療編④~

        出てきた胸水は、実に見事な赤色でした。 まぎれもないガンが転移した胸水です。 患者さんの胸水で見たことなかったものが、自分の肺から出てくると衝撃です。 そして困ったことも分かりました。 長期間、胸水が肺にたまっていたことで、左肺の底あたりが一部潰れていたのです。 そのため、身体に必要な酸素が足りず、酸素ボンベや車椅子での移動が必須となりました。 身体に対して、ほんの1~2センチ程度です。わずかな量と言っても過言ではない。 ですが、そのわずかで、酸素が足りないのです。 人間の

        • 余命1ヶ月だった私へ~治療編③~

          抗がん剤治療が始まりました。 それ以前から、例の商品も摂り始めていました。 ドクターからは、サプリとか何とか、病院が出す物以外は取らないで、と言われましたので、こっそり始めました。 病院以外からのものを取り入れると、何がどう影響したのか分からないからです。しかし、それを承知で私は摂りました。 自己責任、と言ってしまうと冷たいかもですが、ドクターから止められたことをあえてやるのですから、悪化しても仕方ないのです。ここは腹をくくりました。死んだらとっとと成仏しよう、と。 助

        余命一か月だった私へ~迷走編⑥~

          余命1ヶ月だった私へ~治療編②~

          それと同時に、なんと病院での治療が決まりました。ホスピスで死を迎えるのはなく、治療なのです。 もともと、母も乳がんで、手術と抗がん剤治療を受けていました。その担当をして下さったドクターに、私のことを相談していたそうです。 娘は看護師なんですが、頑なに病院に行きたがりません、と。 その母に、1度こちらに連れてきてください、とドクターは伝えていたそうです。 やって来た1月下旬。フラフラしながら、それでも歩いてドクターに会いました。治療する意志があるなら、やってみましょう、と。

          余命1ヶ月だった私へ~治療編②~

          余命1ヶ月だった私へ~治療編①~

          無事に帰ってこれました。 ですが、身体はもう限界です。 いま息をしているのも不思議なくらい。 なので、会える人には直接お別れを伝えようと、何人かの友人知人に会いました。 今日が最期だから、と。 みな、涙ながらにハグします。 私もセンチメンタルな気分でした。 そんな中に、その人たちはいました。 みんな涙ながらだったのに、その人たち、なんと笑うんですよ、私を見て! 「もう打つ手がないなら、それを本気でやればいいじゃない」 笑顔で言うことじゃないよねえ!? 相手は瀕死の病人ですけ

          余命1ヶ月だった私へ~治療編①~

          余命1ヶ月だった私へ~迷走編⑤~

          父は、なんと翌日にすぐに来てくれました。 大量のダンボールとともに。 部屋を撤収し、私を実家に連れて帰るために。 私の顔を見た瞬間から、こいつはきっともうすぐ死ぬだろうと思っていたと思います。 でも性格か、何も言わずに、片付けを始めました。 父が来てくれたおかげか、私はちょっと元気になり、冷蔵庫にあった具材を片付けるため、ちょっと料理をする気力も出てきました。 私は実家に戻るための最低限の荷物をまとめ、父は捨てるものと持ち帰るものを私に尋ねながら、片っ端からダンボールに

          余命1ヶ月だった私へ~迷走編⑤~

          余命1ヶ月だった私へ~迷走編④~

          結果として、父からは、直接の答えはありませんでした。 ただ、こう返ってきました。 「そんなふうに思っていたとは知らなかった。育て方に差をつけたつもりはなかった。親として、成人した子どもが治療方法に望みを出すなら、なんであっても、それを優先するしかない。ただ、親の願いとして、普通の治療を受け、体を治し、人生を全うしてもらいたいとは思う」 そんなふうに思っていたと、このとき、初めて知りました。 代替医療で私がさまよう中、何も言わなかったのは、呆れて見捨てたのではなく、あくま

          余命1ヶ月だった私へ~迷走編④~

          余命1ヶ月だった私へ~迷走編③~

          何をしてもそれらしい結果は得られませんでした。 ただ、時間とお金を浪費する日々。 どうしよう、どうしよう・・・ 藁にもすがる思いで、最後になる波動療法を受けましたが、結果、状態を悪化させただけでした。 こんなにも治したいと思っているのに、なぜ!? どうしよう、治るはずなのに、どうしよう・・・ 知り合いの方から、スポーツ選手も取り入れているサプリメントも紹介してもらい、毎日飲み続けるけれど、回復しないことに逆に疑問を持たれる始末。 こんなに真面目に治そうと努力してい

          余命1ヶ月だった私へ~迷走編③~

          余命1ヶ月だった私へ~迷走編②~

          胸を切るのはいやだ、絶対にいやだ! という頑なな思いが、沸き起こってきました。 要は、ガンそのものが消えれば良いのだ。 そうなる治療方を探せば良いのだ。 これは、チャンスだ!ガンを消して、新しい自分に生まれ変わるんだ! こんな気持ちで、手術を拒否した私の、代替医療を探すことになりました。今から思えば、世紀の大迷走の始まりです。 はじめは、福岡県内某所のビワ療法。次に八王子市に引っ越し、医師が行う免疫療法&漢方内服、また福岡に戻っての温泉&エネルギー治療、また東京に戻っての

          余命1ヶ月だった私へ~迷走編②~

          余命1ヶ月だった私へ~迷走編①

          「・・・え?」 「左の乳がんです。いまならstage2なので、手術で胸を取れば治りますよ」 固まった私に、ドクターはこう言いました。 普通、告知するとき、物々しい雰囲気だったり、家族を呼んだりするんじゃないのか。クリニックの診察室で、ドクターとマンツーマン。グルグル回る私の頭。その中でサラッとこういうやり取りでした。 2016年5月、ガン告知を受けました。 左乳がん、粘液性タイプ、stage2。 医学的には、手術をすれば【治る】、と言われる状態でした。

          余命1ヶ月だった私へ~迷走編①

          2度目の病気で気づいたこと。

          私が体験談をお話させていただくとき、いまだと二部構成になります。一部は乳がんで余命1ヶ月だったとき、二部は転移性脳腫瘍が判明したとき。なんと人生で二度も、髪を失うというおまけ付き。 どんな方でも、余命1ヶ月を経験すれば、人生がまるで違ったもののように、生まれ変わったかのように受け止められるのでは、と思います。 ところが、私はバカでした。筋金入りで。 余命1ヶ月から奇跡的に回復したまでは良かったのですが、その体験談をお話するときに、ドヤ顔でやっていました「復活した私ってす

          2度目の病気で気づいたこと。