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蟻塚より生まれし男、世界で初めて詩を作る~インド聖人譚その一~

インドにはとにかく、聖者にまつわる伝承が多い。

もちろん日本でも、弘法大師空海や一休禅師など、民間伝承に取り上げられている聖人は少なくないのだが、彼らはいかに超常的な能力を持っていても、やはり人間として育ち、人間として社会に関わっている、という感じがする。

それに比べてインドの聖者たちは、その物語が突飛である。おそらくその語られた当初が古いのもあってか、どちらかというと神話に近い、奇天烈な趣がある。インド神話を少しでもご存知な方は、その内容のあまりの不条理さに驚かれたこともあるかと思う。聖者伝もそのノリを大体踏襲しているといっていい。

だがインドとは不思議な国で、一たびそこで過ごせば、「確かに、こんなこともありえたかもな」と思えてしまうのである。万物の母たるガンジスの流れ、天高く聳えるヒマラヤの峰々をはじめ、広大な大地に豊かな自然を持つインド亜大陸の土地の力が、この地に住む人々にそれだけの想像力を与えたのかもしれない。またそれは、断食しつつ岩窟で瞑想に耽る行者たちが、変性意識の中で捉えた数々のビジョンを反映しているのかもしれない。いずれにせよ、物語というのは、それを語り継いできた人々の意志を写すものである。その中には、合理的思考に浸りきって生きている現代人からすれば、まるで荒唐無稽なものと映るものもある。しかし私には、全く詩的想像力の産物であるとしか言いようのないそれらの話の中に、人間存在、そしてその営みの核心を突くような、鋭く敏い視点があるように思われてならない。

インドといえばカレー、IT、ボリウッド。暗いところで言えば女性蔑視や極端な貧富の格差など、とかく表面的な奇異さで耳目を集めがちだが、
このシリーズでは、私がインドで拾い集めてきたそうした聖者のお話をご紹介していきたい。
そうすることで、物語好きの読者の方々に、違った角度からインドへの興味を持っていただけたら幸いである。



蟻塚より生まれし男、世界で初めて詩を作る


遠い昔のこと。北インドのとある森に、強盗を生業とする男が住んでいた。男は妻と子を食べさせるために、森を通る者は誰でも襲って持ち物を奪った。野育ちの屈強な体と、虎のような唸り声を誰もが恐れ、おののいた。脅し、奪い、殺すことにためらいはない。赤子の時両親に捨てられ、盗賊に育てられた男は、それ以外の生き方を知らなかったから。

ある日、ナーラダと呼ばれる高名な仙人が森を歩いていた。その日の獲物を探していた男は、ヴィーナ(弦楽器の一つ)を爪弾きながら鼻歌交じりにやって来るナーラダを見て、「しめた、これは簡単な仕事だぞ」と独りごち、隠れていた木から飛び降り、すかさず剣を抜いた。

「金目の物を全部置いていけ。さもなければ、殺す」

さて、ナーラダはこの世の創造主たる梵天ブラフマーの子であり、何者も恐れはしない。万物はみな敬愛する父の造りしもの、しかるに愛すべきなのだ。盗人の目を見て、優しく問いかける。

「なぜ私を殺そうとする。私があなたを傷つけたことがあったかな」

「おまえに何をされたからというんじゃない。金が要るだけよ、かかあと餓鬼を食わせにゃならねぇからな。さあ言う通りにしな。さもなけりゃ殺す」

ナーラダはなおもゆったりと、

「そうかそうか。まあ、好きなようになさい。
だがその前に、一つだけ聞かせてくれるかな。
あなたは家族を養うためにこうやって人を襲うのだと、そう言ったね。
あなたの奥さんや子どもたちは、その稼ぎで暮らしているわけだ。
では、あなたがそうやって犯した罪の報いも当然、受ける覚悟だろうね?」

罪?男は答えに詰まる。そんな風に考えたことはなかった。

「つ、罪だか何だか知らねえが、そりゃ、もちろん、家族は何があろうとも、どこまでも一緒さ。じゃなきゃ、なんのためにおれは...」

仙人は首を横に振って、言った。

「疑いがあるなら、一度帰って聞いてみるといい」

自分は謀られているのだと男は思った。

「そんなこと言って、おまえ、逃げるつもりだろう。行くもんか。せっかくの獲物をみすみす逃したりはしない」

ナーラダは笑って、

「逃げやしない。行っておいで、待ってるから。信じられないというなら、私の体をこの木に縛り付けていきなさい」

男は言われた通りにして、ナーラダを近くの木に縛り、家族のもとへと急いだ。

道中、今まで殺してきた人たちの苦しむ顔や断末魔が脳裏を掠めた。あの男に出会うまで、気にしたことなんてなかったのに。強いものが弱いものから奪う、自然の習いだ。なのにあいつは、それを「罪」だと言う。

「そんな...おれがしてきたことは、悪いことだったのか?」

家に着くと、妻と子らを呼んだ。

「よう、おれがどうやっておまえらにおまんま食わせてるのか、知ってるだろ。盗みと殺しだ。
そのおかげでこうして生きていられるんだから、それでもし、一緒にその罪の報いとやらを受けることになったって、構わないよな。な?」

妻はみるみる顔を引きつらせて、言った。

「あたしらはあんたに頼るしかないのよ。家族を食べさせるのは夫の役目でしょ。盗みや殺しをしてくれなんて頼んでないんだから、あんたが悪いことしてるっていうのは、あんたの問題でしょ。あたしたち、関係ない。罰を受けるっていうなら、あんた一人よ」

子どもは母の足に縋り付いて、よそよそしく、不安げにこちらを眺めている。

男は愕然とする。自分は家族を養うために、良かれと思って物を奪い、人を殺して生きてきた。でも、それが悪いことだったなんて。しかもあいつらは、何の恩も感じちゃいなかった。自分でしたこと、その報いを受けるのはおれ一人なんだ。
今まで殺してきた人たちの、苦しみに歪んだ、無念の表情が、突然胸に迫ってくる。男は生まれて初めて恐怖を覚えた。立っている地面にぽっかりと穴が開いて、今にも奈落の底に落ちていきそうだった。

居ても立ってもいられず、妻子を残してナーラダのもとに飛び帰った。縄を解いて、その足下にひざまずく。

「おお、かしこい人よ。あんたの言う通りだった。おれはたくさんの罪を犯した大馬鹿だ。目の前が真っ暗で、立っているのも辛い。どうすればこの苦しみから逃れられる。もう二度と、盗みも殺しもしないと誓う」

ナーラダは優しく男の手をとって、こう言った。

「恐がることはないよ。私は一つの言葉を知っている。それはさる神様の名前で、唱えるだけでどんなに重い罪も晴らしてくれる。それをあなたに授けよう。精一杯の気持ちを込めて、その名を唱えなさい。そうすればあなたの罪は消える」

そして耳元で、その名をささやいた。

「ラーマ...さあ、言ってみなさい」

「ラ…?ラ…ラー」

男は生まれてこのかた、乱暴な言葉ばかりを口にしてきたので、その福音に満ちた明るく朗らかな響きを、うまく捉えることができなかった。

「先生、困ったな。いまいちうまく言えねえや。喉につっかえちまう」

どもってばかりでちっとも発音できない男に、ナーラダは一つの工夫を授ける。

「では、マーラ(殺し)と言ってみなさい。」

「そんなら、おれにとっちゃ日常茶飯事だった。簡単でいいや!マーラ、マーラ、マーラ、いくらでも言えるぜ。先生!」

繰り返しているうちに、男の発音は段々と早くなった。するとマーラは、やがてマーラ、マーラ、マ、ラ、マ、ラ、マ......ラーマと聞こえてくるではないか。

「すごい、なんだ。唱えているだけで気分が良くなってきたぞ」

男は知らず知らずのうちに、その名を繰り返し唱えていた。そのまま何時間も、何日も、何か月も、何年も唱え続けた。自分が誰なのか、どこにいるのか遂に忘れてしまい、あまりにも長く石のように動かないでいるので、やがてどこからか蟻の軍団がやってきて、塚を築き始めた。塚は次第に大きくなって、彼をすっぽりと埋めてしまう。

そうして長い歳月が過ぎるうちに、男の罪はすっかり洗い流され、心の中に、彼がその名を唱えているラーマ神の美しい姿が浮かび上がってきた。男はその光輝溢れる映像を見た嬉しさの余り、蟻塚の中から飛び上がった。こうして彼は蟻塚(ヴァールミカ)から現れたもの、「ヴァールミキ」と呼ばれるようになった。

それ以来彼は、タムサ川の河畔に住処を移し、草木で編んだ庵で瞑想の日々を送っていた。かつて盗人だったころの面影はすっかりと失せ、深い知恵の皺が刻まれたその顔には、いつも柔和な微笑が浮かんでいた。ヴァールミキの存在は人に安らぎを与え、穏やかな足取りに、臆病な森の獣たちも付き従うようになった。

ある日、朝の沐浴を済ませ河原を歩いていると、青空を優雅に飛び交う鶴のつがいに出会った。その姿は彼が今までに出会った聖賢たちの心のように真白く清らかで、風を受けて翻る翼の軌跡は、淡い春の光を零していた。
ヴァールミキが目の前の美しい情景に思わず足を止め、嘆息したのも束の間。

一閃、風を切る音がして、片方の鶴がぱたりと落ちた。

どうやら近くを通りがかった猟師が、雄の鶴に矢を放ったらしい。雌は撃たれた雄の周りをおどおどと飛び回り、喉を絞るように叫んで哭いた。辺りの風景は、さっきまでの優しい諧調を失っていた。空の青さは深い悲しみを宿し、春の日差しは静かに横たわる骸を、残酷なまでに白く照らしていた。

その中を、矢の主である狩人が事もなげに歩いてくる。それを見たヴァールミキの心には、深い怒りと悲しみがないまぜになった、黒々とした感情が湧いた。かつて狩る側にいた彼の、人を殺めるとき、刃を振り下ろす瞬間の激情と興奮とが、今度は憐憫と忿怒となって溢れ、涙と共に彼の太い声帯を震わせた。

狩人よ
比翼の鳥を殺めし科に、
汝が末は暗塞くれふたがらむ。


ヴァールミキはこう詠んだが早いか、自分の喉から発せられた言葉の響きにはっとした。それは普段自分が話す調子とはずいぶん違って、一定のリズムと旋律とを持っていた。目の前の悲劇に極まった感情の緊張が、言葉に韻律を与えたのである。

インドでは、この時世界に初めて詩が生まれたといわれている。
ヴァールミキはその後、この韻律を用いて、ラーマ王子を主人公とする英雄叙事詩、『ラーマーヤナ』を書いた。

『ラーマーヤナ』はインドのみならず、ヒンドゥー教が伝播したタイやカンボジアなどの東南アジア諸国に伝わり、ラーマ王子は聖人君子の雛型として、その姫君であるシータは貞女の模範として崇められ、諸民族の人間観の形成に大きな影響を及ぼした。日本の音楽グループ、芸能山城組が取り上げているインドネシアの舞踊「ケチャ」も、ラーマーヤナを題材とした芸能である。シータ姫はまた、スタジオジブリの作品『天空の城ラピュタ』のヒロインのモデルにもなっている。

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