NewJeansが作り出すリアリティとその行方 #2
2章 NewJeansが体現する思春期像(前編)
2.1 "思春期像"という仮説
ミン・ヒジン氏のインタビューを引用した部分でも述べたが、NewJeansのMVやアートワーク、楽曲をみるに、何か個別の参照元があるというよりは、膨大なインプットを噛み砕き再構築された作品群であるように思う。
よって、楽曲ごとにMVの表現も異なるし、楽曲自体も各曲特徴が際立っている。しかし、その全般において、なにか漠然とした一貫性があり、私たち鑑賞者はなんとなく似たような感想を抱いているようである。
とにかくエモい。最高。ミン・ヒジンさんとチームの皆さん、そしてNewJeansのみんなありがとう。
NewJeansのコンテンツを見た方々の感想として多く見られるものをまずはキーワードとしてあげてみたい。
・曲がいい・懐かしい・エモい・新しい・青春・儚い・親近感がある・爽やか・可愛い・等身大・新鮮・90年代っぽい・2000年代っぽい・おしゃれ・若い・幼い・大人っぽい・かっこいい・楽しそう…等々
韓国や海外での感想も軒並みこのようなものであった。
海外の方のSNSやyoutubeでの反応を見ると、”good vibes””groovy”など、音楽に対するより細かい感想が多いようにも感じた。
本当にグッドバイブス。自然に体動いちゃうよねぇ。最高。
注目したい点としては、”懐かしい 青春 儚い”といった、何か思い出や記憶を辿るような感情が多くみられることである。
また、中でも興味深い感想として散見されたのが以下のようなものである。
”NewJeansは無いはずの思い出のようだ”
表現の微細は異なるものの、このような感想がSNSやYoutubeのコメント欄で(国籍を問わず)複数確認できた。
かくいう筆者も、同様の感想を得た。つまるところエモい。
出自や年齢など、コンテクストが異なる様々な鑑賞者が同様の感情を抱いてしまうのはなぜなのだろうか。
ここで、ある仮説を提示したい。NewJeansにはかなり概念的な次元で”思春期像”が設定されているのではないか。
ただの拗らせコミュ障だった自分の思春期とは違い、最高にエモい青春と思春期… もはや、全ての記憶をNewJeansのつくる青春感、思春期像で書き換えたい…
その”思春期像”に対して私たちはバーチャルな思い出を見て、懐かしみ、青春を感じているのではないか。
ここでは、いわゆるムードボード的な単純なデザインイメージではなく、ある種のペルソナやストーリー的なものが製作陣の中で共有され、その”核”をもとに各アートワークに落とし込まれているのではないだろうか。
以下では、少し遠回りにはなるが、楽曲やアートワークの参照元や世界観のコンセプトを推察しながら逆算的に”思春期像”という仮説を検証し、その本質に迫ってみたい。
2.2 AttentionのMVに見る懐かしさ-新しさ
2022年7月22日の深夜0時に唐突に公開されたAttentionのミュージックビデオは、これまた唐突にクラブの正面ショットから始まる。
まじで色々突然過ぎてびっくりしました。見事に術中にハマりました。ありがとうございます(?)
ちなみにこのクラブはスペインはバルセロナにある"Sala Apolo"という実在するクラブである。
画面右から浮足立った少女らが現れ、ここで5人のガールズグループだということがかろうじてわかる程度である。(この瞬間はまだ、彼女らを激推しすることになるとは想像だにしなかった、、、)
ところで、少女らが浮足立っていた理由が、後々、AttentionのMVにNewJeansのメンバー自身がリアクションしている動画の中で明らかになった。
AttentionのMVが公開される前のドキドキわくわくな感じが伝わってくる最高なリアクションです。是非ご覧ください。(お前だれ?)
ミンジ曰く、この日はミンジの誕生日という設定だったようだ。
勘の良い方は気づいていたかもしれないが、口紅を鏡に塗り、息を吹きかけて拭き取るシーンは蝋燭の火を消す瞬間を模していたのだ。
なんとまあオシャレな青春エピソードなのだろう。美しいです。
さて、映像が進み彼女らがフロアの中に入ると、ステージでは若いロックバンドが演奏している。
こちらはスペインのレーベル”Cases de la Música”から今年3月にデビューEP”Limited Edition”をリリースしているJan Bonetというアーティストである。
Attentionの映像の中では、デビューEPの中から、90年代のグランジやUKロックの要素を感じるようなロック曲の”See You in My Dreams”を演奏している。
新進のバンドでありながら懐かしさを感じてしまうような不思議なサウンドだ。
また、EP収録曲のLimited EditionはStingの切ないギターリフを彷彿とさせるようなイントロから始まり、やはり90年代の香りが感じられるメロウなロック曲である。
聞いた瞬間、脳内にLEON(映画)の映像が流れました。是非聞いてみてほしい。
少し話がそれてしまったが、MVの分析に戻ろう。
ここまで見てきただけでも、冒頭から90年代的な懐かしさの要素が組み込まれていることがわかる。
他にも様々な90年代(あるいは、2000年代)の要素がこのミュージックビデオにはいくつも組み込まれており、そこに懐かしさを感じた人が多いのかもしれない。
その要素を思い当たる限り挙げてみる。
懐かしい要素_Y2K
近年のトレンドでもある”Y2K”であるが、SNS等でもAttentionのMVにおけるY2Kファッションに対する言及が多かった。
スタジアムで踊るシーンではショート丈のトップスやゆったりとしたスウェットカーゴ等でまとめられていながら、これまたトレンドであるスポーティな要素が取り入れられている。
これを着こなせる人間はなかなか現存しないでしょう…まじで類まれなる能力…存在がおしゃれ…おしゃれを具現化した存在NewJeans…
クローゼット?のような場所のシーンでは、90年代の原宿系を彷彿とさせるようなファッションとy2k要素(アームウォーマー等)の融合も見られた。
こちらも皆さま似合ってます。優勝。
懐かしい要素_カメラ
MVを通して、スマートフォン(iPhone)が何度も登場する。
曲の冒頭ではスタジアムの観客席でスマホを操作するメンバーたちの引きの絵が差し込まれたり、車の窓からスマホを落としてしまうシーンがあったり等々。
スマホ落としても動揺しないあたり、さすがヘリンさんといったところ。
注目すべきは、最後の海のシーンでシャッター音とともに一瞬だけフィルムカメラが登場するということである。
大きさがスマートフォンとほぼ同じなので、ともすれば見逃してしまうだろう。
このヘインさんのシーン、めちゃCMっぽい。持ち方かっこいいし、圧倒的目力にひれ伏すばかり。是非ともカメラのCMやってください。カメラメーカーさんよろしくお願いします。(お前だれ?part2)
ここで登場するカメラはコンパクトフィルムカメラが人気を博した90年代に登場したYachica T4である。やはり、90年代に一世を風靡したスマートな外観のコンパクトフィルムカメラには懐かしさを感じる。
余談ではあるが、ドリーミィなポートレートが特徴的な気鋭の写真家チャド・ムーアも愛用していることで知られるカメラで、彼の作品とNewJeansの写真のいくつかに現れる夢のような淡く儚い雰囲気には何か通ずるものがあるように思う。
色んな写真家の方にNewJeansのポートレートを撮ってみて欲しいと思うのは自分だけでしょうか。
懐かしい要素_映像
映像の雰囲気に対する感想としてはいくつかの”似ている”作品がSNS等で挙げられていた。その中でも多く見られたのは、
・Sofia Coppola作品(とくに"The Virgin Suicides")
・ディズニーチャンネルのティーンドラマ
・アメリカのシットコム作品
…etc
であった。
『The Virgin Suicides』は5人の少女の話であるという点でもNewJeansとの共通点が多く、言及する人が多かったように思う。
どちらかというと、HurtのMVのほうがそのブルームな雰囲気のフィルターがかかった映像からもソフィアコッポラ作品を思い起こす要素があったかもしれない。
"The Suite Life of Zack & Cody"をはじめとするディズニーチャンネルドラマや"Friends""How I met your mother"といった有名なシットコムドラマに共通するのは、ある種のドキュメンタリータッチな雰囲気だろう。
なるほど、AttentionのMVには、何かドキュメンタリー的な要素というか今の等身大の少女たちの日常を垣間見ているような感覚を引き起こすものがある。
まじでそこらへんにいそうな雰囲気(いません)
こういった映像作品を参照しながら、やはり懐かしいという感想を抱く鑑賞者が非常に多かった。
繰り返しにはなるが、何か一つの作品を参照して表現しているということではなく、チームの中で膨大なインプットを共有し、その中から紡ぎ出されたアウトプットであり、一定の参照元を特定することはナンセンスであるように思う。
ただ、インプットの重心として90年代から2000年代周辺の映像作品やカルチャーを取り入れているであろうことは想像できる。私たちは、自らの記憶の中から、こういった作品群との共通点を見つけ、懐かしいという感情を呼び起こしているのだろう。
懐古とモダンのバランス
さて、ここで念のため述べておきたいのが、NewJeansの作品は単なる懐古趣味やレトロ至上主義ではないということである。
韓国を発端として、しばしニュートロブームが続いているが、その作品群とは少し違う印象がある。ニュートロもエモかっこよくて好きですが!!
スマートフォンやビデオ通話といった現代的・withコロナ的な新しいツールが当たり前に存在する世界において、先に述べたような懐かしさを感じる要素を違和感なく忍ばせていることに、絶妙なバランス感覚を感じる。
これはまじですごい。このバランスミスると一気にチープになるし押しつけがましくなる。自分が建築やインテリアの設計でも感じる難しさ。伝統的な良い食材の本質的な部分を抽出して最低限のいい塩梅で味付けして新しい要素とも組み合わせて。創作日本料理の職人技みたいな感じ?(違うか)
このバランスと巧さがNewJeansの映像作品の”見やすさ”と”リアリティ”を支え、懐かしさを生み出しているのである。
2.3 Hype BoyのMVに通底する多様性とバーチャルな青春
またもや衝撃的なMV公開
Attentionの衝撃的なMV公開から、24時間後の2022年7月23日深夜0時、"Hype Boy"のイントロ動画が投稿された。
50秒しかない動画なので"なんだteaser的なやつか"と瞬間的に察したK-POPファンも少なくないだろう。
私も察しました。そう、生粋のK-POPファンですから。なんなら、最初は最後まで見ずにそっとYoutubeを閉じました。制作陣の皆さますみません。
まだ名前もよく知らないメンバーたちが、グループチャットで会話する様子が流れるだけの動画だ。
内容についても、気になる男の子の話をしてるのか?程度しかわからない。アルバム曲を紹介するわけでもなく、動画が終わろうとする時、驚きの仕掛けが用意されていた。
ウサギのキャラクターが"誰にする??選んでー"とコメントすると画面上に4つのサムネイルが現れる。なんと、各メンバーのMVへのリンクになっている(ダニエルとヘリンは2人で1つ)のである。
Youtubeの機能をハックし、現在のK-POPの主流であるteaser文化へのカウンターを軽やかに実現する手法には脱帽するしかない。海外のYoutuberのリアクション動画を見ても、軒並み驚いていてとても面白い。
マジでビビりました。鳥肌!!!グースパンプス!!!
因みに、現在では各メンバーのMVに直接アクセスすることができるが、公開後数日間はこのイントロ動画からしかアクセスすることができなかった。
そのことからも、"Youtubeの再生回数をいかに増やすか。"というマーケティング的な指標ではなく、"いかに曲の良さを伝えるか""メンバーのビジュアルやパーソナリティを鮮明に記憶してもらうか"という切実な問いのもとに熟慮された手法であることがうかがえる。
多様性が通底する世界観
さて、前置きが長くなってしまったが、まずはHype BoyのMV全体に通底する多様性について分析したい。
それぞれのMVはメンバーを中心とした小さな恋愛の始まり、あるいは終わりを描いたショートストーリーとなっている。
そもそも、異性を描いたMVは最近のK-POPではあまり例がないように思う。たとえ恋や愛がテーマの曲だとしても、明確な”相手”が描かれることは少ない。あくまで恋愛している”私”を中心に見せている。(それはそれでカッコいいし憧れるし素晴らしいです。はい。)
Hype BoyのMVでは恋愛対象としての相手が明確に存在し、その相手との”関係”を中心に物語が展開することで、恋愛や友情への切実さが伝わる内容である。
ここで、ある映画の一節を引用したい。
『Before Sunrise』でセリーヌとジェシーという二人の主人公が人生や愛について語り合うシーンでセリーヌが発した言葉である。
恋愛に限らず、人同士の関係を考える上で非常に示唆に富んだ内容であるように思う。
本質は自分や相手といった個人の中にあるのではなく、”関係”にあるのだ。
これを踏まえてもう一度各MVを概観してみると、まさに、相手との関係の中で多様な価値観を理解しようと試みる過程を見せられているように思えるのである。
短い時間のなかで色んな感情が見られてファンとしては激アツです。ってか、みんな演技上手くね?人生二週目ですか?
そして、これはAttentionのMVにも言えることであるが、人種や国籍、性別を超越した多様性が前提となっている世界観が特徴的だ。
メンバー達の描かれ方も、”欧米に住むアジア人の少女”ではなく、実に自然な状態で、”ただの少女”として存在している。
また、各MVを通して垣間見える"恋愛観"も多様であることがうかがえる。
一つの楽曲に対して一つの恋愛的テーマを載せるのではなく、様々な恋愛観を許容するつくりとなっている。
今になって感じることだが、どうやらメンバーの性格やパーソナリティがある程度MVのプロットや恋愛観の表現にも通じているようである。
ビハインドとか出る前にミンジオンニの面倒見の良さがダダ漏れしちゃってます。ある意味スポです(?)
各MVのプロット
ここで、少しずつではあるが各MVのプロットを要約しておく。筆者の解釈によるものなので、制作者の意図や他の方の解釈と異なる部分があるかもしれないがご了承いただきたい。
Hype Boy Minji ver.
ミンジの”相手”は奔放な少年である。なんとか相手の好みに合わせて自分をアップデートしようと試みるミンジの好意を、彼はヒラリヒラリとかわしていく。つかず離れずな関係性が心地よさそうだ。ミンジはあえて離れることもなく積極的に相手に関わろうとする。
Hype Boy Hanni ver.
ハニの”相手”は顔を隔し匿名でダンスを発信している画面の中の人"n0_face#"である。ビジュアルや人間性よりも、その人の持つ芸術的なセンスや嗜好の部分に魅かれるのだろうか。メッセージを送り、n0_face#をパーティへ呼ぶことに成功したハニ。パーティ当日、マスクを取ったその人を見ると…
Hype Boy Hyein ver.
ヘインの”相手”はインヘラーを持ち歩くアーティスティックな少年である。そのミステリアスな雰囲気に魅かれたヘインは、彼が落としたインヘラーを拾ったことをきっかけにパーティへと誘う。しかし、自分たちのパフォーマンスを嘲笑する彼を見たヘインは、自分が思い描いていた理想像との乖離に幻滅する。
Hype Boy Danielle&Haerin ver.
ダニエルとヘリンの”相手”はバスケットボール部のプレイボーイ、あるいは、友人であるお互い同士だ。自分の感情を自然に表出しながら彼とのやりとりを楽しんでいたダニエル。一方で、彼からのアプローチにも興味なしといった表情のヘリン。ある日、彼の二股を悟った二人。以外にも友情に熱いヘリンは他の4人を主導し仕返しを決行する。一連の事件をきっかけに二人の友情は地固まるのであった。
以上のようにそれぞれの相手は多様な性格や身体的特徴を持った対象であるし、各々のメンバーが表現する恋愛観も多様である。
約3分という短い時間の中で登場人物同士の"関係"は目まぐるしく動き収束していく。起承転結がありながら、そのあとの事も想像させるような余白のあるつくりだ。
アフターストーリーの脚本書くのでもう一本MV作ってください。これは一生のお願いです。
多様性という言葉の多様性
さて、多様性について語るうえで避けられないのが、ハニver.のMVであろう。
あえて上記の要約には明記しなかったが、ハニが思いを寄せていた"彼"が実は女性だったという"オチ"があるプロットだ。
LGBTQ+の価値観を自然に許容する内容であり、SNSやYoutubeのコメント欄、リアクション動画を見ると、特に欧米の鑑賞者には好感を持って受け入れられているようである。
こういったテーマを物語に落とし込む際は、かなり繊細な配慮が必要になるのが今の時代の特徴だろう。
例えば、2019年のCalvin Kleinの『SPEAK MY TRUTH IN #MYCALVINS』キャンペーンで公開された映像や、ビリー・アイリッシュの楽曲『Lost Cause』のMVにおける表現がクィアベイティングであるとの批判を受け話題になった。
つまり、演者が異性愛者であるにも関わらず、そういったLGBTQ+を示唆するような表現をすることがマーケティング的な卑劣な手法だという認識が生じたのである。
今回のHype BoyのMV Hanni ver.はそういった繊細な問題に対する配慮が適切に行われていると感じた。
それを適えることができている要因のひとつとして、n0_face#と対面した時にハニが浮かべる"表情の変化"にあるように思う。
ダニエルとヘリンに押されて、n0_face#に対面するハニ。その表情の変化を記述すると、
目が泳ぐ→相手を見て目を見開く→右下に目線をそらす→軽く微笑む→再び目を合わせて大きくほほ笑む
というように、一瞬のうちに次々と表情が移り変わっている。ここから、
期待と不安→驚き→考えたうえで納得→理解→希望
といったような心境の変化が推察できる。
ここには、LGBTQ+に対する批判的な態度もなければ、極端に礼賛するような態度もない。ただ、"理解"とこれからの"関係に対しての希望"があるのみだ。
この繊細な表情の変化は演出であると言ったらそれまでだが、ハニ自身がジェネラルであらゆる物事に対して平等な価値観の持ち主であることをどことなく思わせる。ハニさん、絶対イイやつ。
多様性を"押し付ける"のではなく、当たり前の前提として受け入れている状態は、今の社会においては非常に重要なことなのではないかと思う。
お笑い芸人の若林正恭氏と哲学者の國分巧一郎氏が文學界2021年3月号の対談で以下のような会話をしていた。
差別が駄目であると叫ぶことは簡単だが、真の意味で多様性を認めることは非常に難しい。時には差別はダメという主張を盾に多様性を阻害していることだってある。
そもそも、"認める"という表現が適切かも怪しい。
多様性に認める側も認められる側もないはずだ。多様性という言葉の解釈自体にも多様性がある。
ねじ曲がった主張や、自分は多様性を"認めている側だ"という誤解が跋扈する現代社会の中で、Hype BoyのMVの中の世界は多様性が自然に存在する、"次の段階の社会"が実現している世界のように見える。
多様性を揺るがす"炎上"とその罪深さ
ここで言及するのが適切かわからないが、ネット上で話題になっていた一件についても多様性という観点から触れておきたい。
ここまで何度も登場してきたミン・ヒジン氏が、過去のinstagramに投稿していた自身の部屋の写真をきっかけにある"炎上騒動"が起きた。
氏の部屋に飾られていたアートピースを理由に"ペド疑惑"といった言葉がSNS上で飛び交った。
まず、筆者としては今回の炎上に対しては憤りを感じ、強く批判的な姿勢をとっている。(ここで誤解して欲しくないのは、筆者が単にミン・ヒジン氏を擁護するためにこのような主張をしているわけではないということである。主張はもっと前の段階にある。)
ペドフィリアという医学的疾患と性犯罪的な表現を根拠なく結びつけるような言説が多いことも適切でないと感じるし、なによりも、単にミン・ヒジン氏を非難するためだけの"理由付け"としてそれらの言説が利用されているように見えたのだ。
"炎上"は人々にすぐに忘れ去られ、本質的な問題を覆い隠してしまう。ペドフィリアに限らず、自らの性的嗜好に苦しむ人は多く存在するはずだし、そういった嗜好が犯罪に結びつかないようにするための社会的構造をどのように実現するかといった問題こそ議論されるべきである。
朝井リョウ氏による『正欲』はそういった性的マイノリティや現代の社会構造の問題、人々の認識の誤謬に深くもぐりこんだ傑作であるが、今回の炎上を受けて改めて読み直した作品である。
本文冒頭より以下の一節を引用したい。
多様性という言葉を使う以上、自分の想像力に限界があることを認め、その想像力を広げるための戒めとして、心に留めておきたい内容である。
とにかく、今回の炎上については、炎上に終わらせて良い内容ではない。考え続けなければならない大問題なのである。
浅はかな欲求を満たすことを目的とした批判のために、短絡的で強引なこじつけをしていた人々が、この問題を忘れないでいてくれることを願うばかりである。
さて、このテーマだけで無限に考えられてしまうので、そろそろ分析に戻りたい。
ストーリーの構成が作り出すバーチャルな青春
Hype BoyのMVの世界から感じ取れるのは、多様性が前提となった世界観であり、その世界観の上に少女たちが生きている、ということを述べてきた。
このあと分析する"青春っぽさ"は、ともすれば過去に対する表現にも思えるが、彼女達が生きる場所は、あくまで多様性の価値観がアップデートされた未来の世界であるということを心に留めておきたい。
筆者が4本のバージョン別MVを通じて得られた感想としては、先にも言及したように、"無いはずなのに思い出のようで自分が通ってきた青春時代のようだ"というようなものであった。
つまるところエモいということです。
今現在、10代真っ只中の鑑賞者とは感覚が違うかもしれないが、SNSやyoutubeのコメント欄でもこのような感想は多く見られたので、あながちズレた感想ではないだろう。
多くの人が何か”バーチャルな過去の青春時代”を感じ取っているのである。
尚、”バーチャル”という言葉は意味が誤解されることが多いので、念のためここで確認しておきたい。
近年身近になってきているVR(Virtual Reality)の日本語訳が”仮想現実”とされていることで誤った意味で定着してしまっているきらいがある。
『バーチャルリアリティ学/日本バーチャルリアリティ学会 編』の中で、バーチャルの意味については以下のように説明されている。
当たり前だが、Hype BoyのMVに出てくるストーリーは、みかけや形は筆者の青春時代そのものではない。(当たり前です。反省してください。はい。すみません。)
しかし、本質あるいは効果としては、自分の青春時代を見ているかのように感じてしまっているのだ。
このバーチャルな青春を鑑賞者の頭の中に作り出し、懐かしさや甘酸っぱさといった感情を呼び起こす要因は何であろうか。
主軸となるテーマが恋愛であること、登場人物が若くフレッシュであることもその要因のひとつではあるが、より潜在的な要因があるのではないか。
分析の助けとして、改めて各MVのストーリー構成についてみてみる。
Hype Boyのストーリーはアンサンブル・キャストの群像劇を4つに分割したようなつくりとなっている。
スマートフォンの中のグループチャットという場を5人が共有しながら、恋愛を軸とした物語が並行して展開され、最後はパーティ会場というリアルな場に収束していく。
ある種、伏線回収にも似たカタルシスを感じられるようなプロットだ。
イントロ動画や各MVの中でグループチャットがプールのある空間として比喩的に描かれているように、彼女たちにとってのそれは、決してアンリアルなものではなくリアルな居場所として確かに存在している。
今っぽくてなんか羨ましいです。ええ。
2.1でも触れたが、この、アメリカのシットコムに似たような群像劇的なプロットの在り方が、一種の懐かしさや青春っぽさを生んでいるのかもしれない。
少し突飛な分析ではあるが、Hype BoyのMVにおける"グループチャット"は"How I Met Your Mother"における"MacLaren's Pub"だと考えられないだろうか。
How I met Your Motherの主人公である5人は様々な場所で様々な相手と恋愛関係を築いては解消し、必ずこのパブに戻って語り合う。
鑑賞者のそれぞれが、学生時代(に限らず若い頃)には、こういった居場所のようなものを持ち合わせていることが多いだろう。
ある人にとってはNewJeansと同様にグループチャットのようなものかもしれないし、ある人にとっては放課後の教室かもしれない。筆者にとっては部活の後のファミレスがそれだった。
ドリンクバーとフライドポテトで無限に居座るダルい高校生集団でした。あの時の店員さんすみませんでした。
鑑賞者各々の記憶のなかにある"居場所"と"友人達"という要素がHype BoyのMVのストーリー構成とリンクする。
イメージとしてはNewJeansが描く華やかで浮世離れしたビジュアルに置き換わり、新たな青春の記憶が作り出される。
これはある意味で鑑賞者それぞれに唯一無二のバーチャルリアリティが作られている状態だ。
NewJeansと青春の記憶を共有しているっていうことは、、、自分ってもはやNewJeans!?!?(違う)
学校や若い登場人物といったわかりやすく青春を想起するような要素はもちろんのこと、上記のような"記憶が美麗に塗り替えられる体験"を通して、鑑賞者はNewJeansが作り出す世界観に魅了されるのではないだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?