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アフロばばあ 5話「最後の言葉」「進化系アフロばばあ」

【これまでの内容】
化け物が棲むと言われる、通称「怪物トンネル」で頭をかじられた女性遺体が見つかる。そこには、縮れ髪の中年女「アフロばばあ」がいたようで……。
そんな中、ゴシップ記者として働く柏木奈々は、何者かに追われ負傷する。その後、同じ時刻に3人が違う場所で死亡する事件が発生。事件を探っていると、1人の男性にいきつく。しかし男性もアフロばばあに襲われてしまう。

 ■最後の言葉

 どれくらい走っただろう。

 気づくと、見知らぬ路地裏にいた。

「どういうことか、説明してください」

 奈々は肩で息をしている状態だったが、タケルの息はあまり乱れていなかった。20代と30代の違いなのだろうか。ふたりは道路から見えないアパートの階段に座った。

「タケルくん、見えなかったの。そこに縮れ髪の怪物がいた」

「アフロばばあですか」

「たぶん」

 そう言いながら、奈々は喉をかきむしった。

「ねえ、どうしようもなく喉が痒いというか気持ち悪いのよ。アフロばばあ、黒谷の真っ黒な髪をまるでそうめんでも啜るみたいに吸い込んでいたの。ふつう髪の毛食べたら、異物感でうえってなるじゃない。でも黒谷さんの髪の毛はすうっとなくなって、それを見たら私は自分の中にその髪の毛が入ってきた気がして吐瀉物が口まで這い上がってきて。今も喉の内側に髪の毛がへばりついて、ざわざわうごめいているんじゃないかって、気持ち悪いのよ」

「奈々さん、落ち着いてください」 

 タケルはカバンから未開封のペットボトルのお茶を手渡してくる。

「飲もうと思って買ってたの忘れてました」

「無理! こんなの飲んだら、私の中に髪の毛が入ってきて、私もあんなふうに……」

 奈々は口の中に手を突っ込んで、喉の奥にはさまった何かを吐き出そうとした。

 だが吐き気がこみ上げくるだけで、何もでてこない。

 胃のあたりから強烈な圧力がせり上がってきて、喉のあたりで停滞し膨れ上がっていく。恐怖なのか、自分に似た頭をした怪物が人を襲う様子を見て、自分の末路を見たような気がしたのか、涙が溢れでた。

「奈々さんは、髪の毛を飲んでいません。飲んだのは、アフロばばあであなたじゃない。今、気持ち悪いのは変なものを見たからです。落ちついて」

 そういうとタケルは奈々の背中をさすった。

 少し離れた場所から救急車の音が聞こえてきた。

 すぐにタケルが、ケータイで確認する。方向からして救急車は、先程の公園だろう。ブランコを漕いでいた人物が連絡してくれたのかもしれない。

「落ち着きましたか」

 タケルの手がふっと離れた。奈々はその手の温かさが、気持ちを落ち着かせる材料になっていたことに気づかされた。

「ありがとう」

 タケルからもらった水を口に含み、思い切って飲んだ。水は喉をするりと通り、落ちていった。異物が残っているようなあの不快感はもう消えていた。

「黒谷さんが亡くなる前、僕に『ガチャガチャが消えた、大変なことになる』と言っていたんです」

 

 

■進化系アフロばばあ

 どんなに遅くまで起きていても朝6時に起きてしまう。奈々は素早く身支度をして洗濯物をまわした。キッチンからは母が作るベーコンエッグのかおりが漂ってくる。

 母、父、一樹が食卓に揃うのは、朝食のときだけだ。そのためか母と父の方針で、テレビをつけることは許されていない。

 一樹はベーコンエッグにたっぷりとケチャップをかけて、口に運んでいった。

「今度の土曜日、参観日だけど母さん来ないよね?」

「行くよ! 今日から有休消化するからね。週末はどっか行こうか」

「水族館、行きたい!」

 目をキラキラさせながら一樹がいった。

「そうだね、約束」

 ぎゅうっと抱きしめると、一樹は「ケチャップつけるよ」と悪態をついてくる。以前は抱きしめたらよろこんでくれたのに。こうやって大きくなっていくのだろうか。

 今は水族館に行こうと母親に言ってくれるが、そのうち友だちと行きたいと言い出し、母親など蚊帳の外になっていくのだろう。そのときに忙しく仕事をしていた時期を、悔やまないか自信が持てずにいた。

 一樹はランドセルを背負って、父と一緒に出かけていった。

 コーヒーを淹れ、リビングのテレビをつける。母は眠いのでもう一度寝ると、自室に戻っていった。

 テレビ画面に黒谷の写真がアップにうつる。仁科玲と黒谷が同じ会社に勤めていたことが報道されていたが、平川えりも片丘物産で以前働いていたことには触れられていなかった。

 ゆっくりと朝風呂に入った。

 さっぱりした体でリビングに戻ると、会社からの不在通知があった。

 電話を入れると事務員の春美がでた。電話があった旨を伝えると編集長に回してくれる。

「いつになったら出てこれそうだ?」

 近々ムック本制作が始まるので、そのメンバーになってほしいというのだ。正直、気がのらなかったので「考えてみます」と答えると、編集長は「よろしく」と短く答えた。

 電話を切ったあと、部屋の片付けをして戻ると、再び編集長から連絡が入っていた。今度は出先なのか、ケータイからだ。

 折り返すと、1コールででた。

「そっちは、大丈夫か」

「はい?」

 電話口からため息が漏れ聞こえる。

「SNSみてないのか。昨日、仁科玲と同じ職場で働いていた男が殺された。SNSでは現場にアフロヘアの小柄な女と男がいたと書き込みがあった。それに関連付けて、お前の写真が拡散されている」

 慌ててSNSを確認する。道を歩いている奈々の写真が遠目から撮られていた。その写真に見覚えがあった。タケルのDMに送られてきたという、ジーンズにコンバース姿の奈々の盗撮写真だ。遠いため顔はあまり見えないが、奈々を知る人が見えれば、すぐにわかるだろう。

 それに実際の殺人現場でも、同じ服装でいた。ブランコにいた人物が目にしたら、かなりややこしいことになる。

「私は何もしていません」

「わかってるよ」

「この写真は、会社に顔を出した帰りに盗撮されたものです。私は会社にその犯人がいると思っています」

「なんだって?」

「入社してすぐに、子どもができました。皆さん、とてもよくしてくると思っていました。でも内心、嫌な気持ちになっている人がいたのかもしれません。よくいうじゃないですか、育休の負担が社員にかかるけれど口にだしにくいと。そういうのが溜まって、私に対して嫌な気持ちを……」

「そんなわけないだろう」

「でも実際に、写真まで!」

「だからそれは……とにかく、もしかしたらお前の家が特定されて嫌がらせに発展する可能性もある。そうしたら、俺に連絡するんだ、いいな」

 返事をせずに電話を切った。

 しばらくすると、今度はタケルから連絡があった。

「奈々さん、わかりました」

 その口調は、とても浮かれていた。

「何の話?」

「もしかしたら今回のような事件は、過去にもあったのではと思い、ずっとネットで調べていたんです」

「頭をかじられて、髪の毛をむしられて死んだ事件?」

「そうです! 42年前に、千葉県で起きたのが、最初の事件です。僕は、その場所に行ってみようと思います」

「なら、私も行く。駅前で待ち合わせね」

「ダメです、奈々さんは……殺人犯と勘違いされています。顔バレもしていますから危険です」

「そんなことわかってるわ」

 奈々はそういうと、鼻でわらった。

 

■田中ナナ

 電車に揺られ、何度もあくびや伸びをしながら辿り着いた先は、高い建物のない駅だった。駅を降りるとささやかなロータリーがあり、周辺のお店はほぼシャッターが閉まっていた。

 外に出てスマートフォンを確認すると、家から電話が何度も入っていた。かけ直すがでない。母のスマートフォンにかけ直すと、すぐに出た。

「奈々、どういうことなの。一樹が具合悪くなったって学校から連絡があったから迎えに行ったのよ。でもよくよく聞くと、一樹、学校でいじめられたって『お前の母ちゃん、アフロばばあなんだろう』とか『人殺しとか』とか……」

「一樹にかわって」

「……嫌だって。さっきからいたずら電話もかかってきて。電話線を抜いたの。庭にも変なものが投げられて……」

「すぐに折り返す」

 電話を切ると、編集長に連絡を入れた。

「なにかあったのか?」

「編集長が言う通りになりました。編集長がもし私の写真をアップした人じゃないなら……」

「そんなの当たり前だろう! マスコミにばれるのは時間の問題だ。お前の母親のケータイの番号を教えろ。これから俺の家に避難させる。心配するな、俺は会社が家みたいなもんでね。君らの生活は邪魔しない。で、今、お前はどこにいるんだ」

「すぐには戻れない場所です」

「そうか、落ち着いたら連絡するから。急いで戻ってこなくて大丈夫だ。信用しろ」

 母の連絡先を教え、母にもその旨を伝えると疲れがどっとでた。

「頭を刈りたい」

 奈々のつぶやきに、タケルが

「頭が蒸れますからね」

といった。その言葉に、自分がストレートヘアのかつらをつけてきたのを思い出した。そしてタケルの言葉通り、頭が非常にあつかった。

 鼻の横には大きめのほくろを付け、眉毛を太めに描いてきた。これならアフロばばあと間違えられることはないはずだ。

 このまま家に戻るべきか迷った。だが戻ったところで、何もできない。

 むしろ家族に近づくことは、家族に迷惑をかけることかもしれない。両親ともにストレートヘアなのに、なぜ自分だけ縮れ毛なのか。何度も呪った髪の毛。ここ数週間で、どんどん自分の容姿にいらだちを覚える。

 それまで嫌だと思ったこともあったが、笑いにかえて生きてきた。自分の容姿によって他人に迷惑を掛けなかったからできたことだ。容姿によって人に、しかも大切な家族に迷惑をかけてしまうなんて。

 縮毛矯正をしたってすぐに戻ってしまう髪の毛を隠すために、毎日カツラを被って生活しろというのか。人からの間違った避難の目から逃れるために、どうして自分を隠さないと日常が得られないのか。そんなこと、あっていいのか。奈々は歯を食いしばった。

「ちょっとタクシー探してきますね。奈々さんは、こちらに座って待っていてください」

 タケルは気を利かせたのか。奈々をひとりにさせてくれたのがありがたかった。

 結局、タクシーは見つからず、歩くことにした。

 42年前に事件があったのは、山間部にある一軒家の中だった。田中家の主人と妻が、何者かに殺された。その遺体には、頭をかじられたあとがあり、髪の毛が複数引き抜かれていたという。ちなみに、事件当時に兄妹は在宅していなかった。そのため警察は、物盗りに入った犯人が家主に見つかったため殺害し、現場にあった斧で脅し、悲鳴を聞いて駆けつけた妻を惨殺したと結論づけたようだ。

 地図アプリが示す先に辿り着いた。当時の建物はなくなり、真新しい戸建てがたっていた。

「振り出しに戻る……ですね」

 タケルの言葉に、疲れがどっとでる。奈々は蒸れて仕方ないので、カツラを取った。すうっと風が髪の毛の間を通り抜け、なんとも心地いい。

「ナナちゃんかい?」

 背後から名前を呼ばれ、奈々は振り返る。たばこ屋で店番をしていた、老婆だった。奈々を顔を見ると「そんなわけないか。人違いだ、すまないね」といった。

「私は腹違いの妹なんです。たしかこの当たりに兄の家があったはずなんですが……ご存知ないですか?」

と訊ねた。

 隣のタケルはきょとんとした表情を浮かべている。

「田中さんちのナナちゃん? 双子がいたの。まあ、そっくりだこと。こっちのほうが別嬪さんだけどねえ。稔くんはね、実家を売って引っ越したんだよ」

「どこに引っ越したか、ご存知ですか」

「さあ、そこまではねえ。もともと稔くんは、海外行ったり来たりだったからねえ。……あ、でも、変なこと言ってたよ。ラクダに乗った王子様とお姫さまがいる海が気に入った、とか何とか」

「そうですか。……相変わらず、車はお好きでした?」

「そうそう、また新しいの買ってたよ。今度はサーフィンボード載せなくて良いから、ルパンの車にしたんだってね」

 奈々は頭を下げると、駅へと急いだ。

「ちょっと、それだけで場所がわかるんですか」

「ええ。多分、御宿海岸の近くよ。御宿海岸は童謡『月の沙漠』の舞台。月の沙漠記念館もあって、海岸にはラクダに乗る姫と王子様の記念像もある」

 ふたりは急いで駅に戻ると、電車に飛び乗った。

 座ると睡魔が忍び寄ってくる。しかしタケルは、いたって元気だ。

「ビックリしましたよ、腹違いの妹なんて。……でもどうして、姉の話は聞かなかったんですか?」

「あのお婆さんは、私の後ろ姿を見て『ナナ』と呼んだ。でも顔を見て『そんなわけないか』と言ったからよ」

「え?」

「つまりナナさんは、ここにいるわけはないってこと。だから、あえて兄について聞いたの」

「では、なぜ車のことを?」

「それは、家の範囲を狭めるため。海外と日本を行ったり来たりするうえ、車好きということは、そこそこお金に余裕のある人。それならそれ相応のマンションに住むはず。海の近くならなおさら、駐車場にはこだわるでしょうね」

 そういう奈々を見て、タケルは驚いた表情を浮かべていた。

 ウトウトしているうちに、御宿駅に到着した。

 像が見えて、マンション内に屋根のある駐車場があるマンションを当たっていく。ルパン三世の愛車といえば、フィアット500が有名だ。条件に当てはまるマンションを手分けして探していく。

 思ったよりもはやく見つかった。
 車が駐車場に停まっていたため、かなりラッキーだった。

 
 田中稔は海の近くに建つ、オフホワイト色のマンションの5階に住んでいた。田中稔と書かれた表札のインターフォンを鳴らすと、50代半ばの男性が出てくる。

 実家で起こった事件のことについて知りたいというと「蒸し返さないでください!」とドアを閉めようとした。

 が、すぐにタケルがドアをつかんだ。「姉も被害者なんです!」
 田中の目が光る。

「もう思い出したくないんです。すみません」

 再びドアを閉めようとするので、奈々は思い切り隙間に手を入れ体を滑らせた。
「どうか、お話だけでも!」

「ナナ……!」

 田中の視点は、奈々の頭上にあった。
 頭を触るとカツラが取れ、縮れ毛が剥き出しになっていた。

「どうしてその名前を……SNSに名前まで出てなかったはずです」

 奈々が強い口調でいうと、田中はハッとした表情を浮かべ、うなずいた。「わかりました。どうぞお上がりください」
 そういうと田中は頭を下げ、部屋に招いてくれた。

 ダイニングキッチンの奥にはリビングがあり、その隣には寝室があるようだった。趣味のいい家具で統一されているリビングに通された。

「昨夜、日本に戻ってきたばかりで疲れてしまって。今日はリモートワークにしてもらったんです」

 田中はパソコンを片付け、コーヒーを用意しながらいった。彼はバイヤーをしていて、各国と日本を行き来する生活をしているそうだ。少しすると香り高いコーヒーがだされた。これも田中が選んだ豆を使っているという。飲むと口の中に花の香りが広がっていく。安いコーヒーばかり飲んでいる奈々には新鮮な味わいだった。

「どういうことか教えていただけますか」

 田中の言葉に、タケルが口を開く。

「姉は東京にある怪物トンネルという場所で、何者かに襲われ殺されました。最後の言葉は『アフロばばあ』でした。姉の遺体は頭にかじられた痕跡があり、髪の毛がむしり取られていました。その後、近くのエリアで同様の事件が4件起きました。そのうち3件は、同じ時刻に別々の場所で発生したものです」

「その事件は私も知っています。まさかあなたが、その被害者の遺族とは、大変失礼いたしました。あなたも、事件に関係ないのに、髪型から……犯人と疑われてしまっているようですね」

 先ほどの電話が脳内で再現される。それを察知してくれたことがうれしかった。瞳が熱くなっていくのを必死にこらえた。

「犯人は私の妹かもしれません」

「え?」

 そういうと田中は立ち上がり、隣の部屋の収納から大きなアルミ製の入れ物を持ってきた。蓋を開けると、中から古いノートが数冊でてきた。

「これは田中ナナ、私の妹の遺品です」

 そういうと、田中はゆっくりと話だした。

「ナナは生まれつき、髪の毛がくるっとしていて、顔立ちも……お世辞にもかわいいとは言えない子でした。

 そのためか、小さいころからいじめられていました。両親も、僕にはご飯を作るのに、ナナはとてもよく食べるからと、徐々に残り物しかあげなくなりました。

 小学校に上がると、いじめはさらにエスカレートしました。両親はナナに対して興味を失っていたので、洋服などは買いません。小さなピチピチの服を着て、冬でも僕の半袖・半ズボンを着用して嗤われていました。

 そんなある日、ナナが同級生の突き飛ばされ、廊下で転んでしまったことがありました。そこに同級生の男の子が、手を差し伸べてくれたんです。

 王子様が現れたと思ったのでしょう。ナナはその男の子、杉田くんです。杉田くんのためにきれいになろうと思うようになりました。

 ナナは勝手に母の化粧品を使い、母の服にハサミを入れ縫い直そうとしました。激高した母は、ナナをペット用の檻に閉じ込めたんです。

 それまで檻のなかにいた子犬は、その日から自由になりました。ナナはその日から子犬以下の存在になったのです。もちろん口に入れるものは食事から「餌」と呼ばれるようになりました。といってもドッグフードは与えません。母いわくドッグフードは高級品らしいので、もっぱら家族の残り物ばかり。彼女はそれを手で食べることもありました。母はよく箸やスプーンを渡すのを忘れてしまうのです。

 ナナの言葉はすべて『うるさい』で封じられるので、箸がないことも両親には伝えられません。

 だからお腹がすいたら、箸がなくてもご飯を手でつかんで食べないといけない。『汚い子だね』と悪態をつかれ、叩かれ、蹴られ、雑巾を口に突っ込まれても。

 逆らったら何をされるかわかりません。じきに父は家に帰らなくなり、僕は勉強ばかりして、檻のあるリビングに行かなくなりました。

 それでも学校には行かせていました。

 ナナはある日、杉田くんのあとをつけ、家を突き止めました。毎日家を覗いては、そのようすをノートに綴るようになったんです。杉田くんの両親は温かいスープを温かいままだしてくれる、一般的……というと不思議に聞こえるかもしれませんが……とにかく普通の親でした。

 僕たちの家は歪んでいたから、彼女にとってそれは異次元の世界だったようです。見ているだけでしあわせで、楽園のように見えたそうです。その場所の住人は、みんな笑っていました。杉田くんは笑っている人が好きなのだと思いました。だからその日から、ナナはいつも笑っているようになりました。

 学校のトイレで水を掛けられても、廊下で転ばされても、モップで顔を拭かれても、歯を出して笑っていました。彼女は殴られ過ぎたためか、顎が歪み、歯はガタガタでした。

 彼女が笑うとみんな、波が引くように気持ちを遠のかせるんです。そして我に返り「気持ち悪い」「化け物」とさらにひどいことをしでかします。

 顔に靴跡を残して帰ってきたこともあります。それでも杉田くんに好かれるために、笑っていました。

 そんなある日、杉田くんから公園に来てと誘われました。放課後、ナナはよろこんでいきました。

 杉田くんから写真を見せられました。ナナが毎日、杉田くんの家を覗いている様子が映されたものでした。

 気持ち悪いから辞めてくれる、もう関わらないで。と言われ、とっさにナナは、好きなの!と抱きついたそうです。

 杉田くんは『鏡見てからいえ』と言い、ナナを突き飛ばしました。

 そこは高台にある公園で、ナナは長い階段から転げ落ちました。傷だらけのナナの横を、杉田くんが駆け抜けていきます。その足音を聞きながら『きっと動揺しているんだ、話せばわかってくれるはず。だって彼は私の王子様なのだから』と思うのです。

 翌日、絆創膏だらけのナナが登校すると、みんなが『どうしたの』と言うのすら禍々しいという表情でナナを見ていました。その日は、すごい怪我だから母と僕も学校を休ませようとしたけれど、ナナは珍しく行きたがったので行かせたんです。僕は後ろからついて行っていたので、その様子を見ていました。それは酷く、悲しい光景でした。

 あの日、行かせなければよかった。
 
 今でも、そう思っています。

 その日、彼女は傷だらけのまま席に座ると『杉田に告白したんだって?』『抱きついたらしいじゃん、きもい』『くるくる頭のくせに、身分わきまえろ、にやけ女!』とクラス中の生徒からあざ笑われました。

杉田くんを見ると、そのかたわらには、クラス一の美女、美希がいました。美希も杉田も笑っていました。顔を見合わせて。

そして美希はこういったのです。『私の彼氏、取らないでくれる』と。クラス中から笑いが生まれました。自然な笑いです。ナナがいつもしていた貼り付いた笑いではなく、心からの笑いです。.

 ナナは学校を飛び出し……。それ以来、自室に籠もってしまいました。自室とは檻ではなく本当の自分の部屋です。

 彼女は父のパソコンを奪い、部屋に鍵を掛けて出てこなくなってしまいました。彼女は怒ると手がつけられなくなりました。母を包丁で切り裂こうとしたこともあります。彼女は父のパソコンを奪い、ずっと部屋に籠もるようになりました。食事も部屋でとるので、妹とはほとんど顔を合わせません。そのため、表向き母と父と僕の家族は仲良し家族になりました。父も家に帰ってくる回数が増えていきました。

 今から考えると本当に気持ちの悪い話です。でも僕にとってあの頃が、あの家にいたときのなかで一番平和だったんです。檻がなくなったので……」

 そういうと田中はノートを撫でて、ため息を吐いた。

「あの日は、土曜日でした。僕は朝から部活だったので、出かけていました。帰宅すると、父と母はリビングで頭から血を流して、毛を引っこ抜かれて……倒れていました。ナナがやったのかと思いました。でもナナは、いませんでした。少しして奈々が帰ってきました。奈々は両親を見ると、突然、斧を畳に突き刺しました。発狂したのかと思いました。

 あとから分かったのですが、ナナは数駅先の絵画教室で1日中、集中講座を受けていたことがわかりました。ずっと引きこもっていた彼女が、たまたま勇気を出して外にでた日に、両親が死んだわけです。

 その後は、祖父が僕たちを面倒見てくれました。僕は家から出たくて東京の大学に進み、東京の会社に就職しました。しかしナナはあの家を出ようとはしませんでした。血のあとを隠そうともせずに毎日踏み、生活をし続けました。

 その後、ナナは祖父の口利きで会社に勤めるようになりました。しかしそこでもイジメられたようです……。この頃の日記には日々、呪詛のような言葉が並びます。毎日、毎日ナナは彼らを呪い、死ぬことを願っていました。そして19歳になって、ナナは階段から落ちて死にました。全てが始まったあの公園で彼女は死んだのです。遺体は頭がグチャグチャで髪の毛がたくさん抜けていました。

 私は昨年、千葉への転勤が決まりこちらに戻ってきました。実家は更地にして売りました。そのときに……こんなものを見つけたんです」

 遺品のノートを開くと、レシピのようなものがのっていた。さらにめくると、怒りに満ちた角張った字の羅列。ノートびっしり書かれていた。そんな本は20冊以上あった。

 奈々はそのうちの1冊を手に取る。そのうちの1ページに、目が奪われた。

「なにこれ……『この世の中に私を必要としている人間はいない。笑顔になると人は集まってくるというけれど、私の場合は離れていく。どんどん一人になり、まわりに誰も寄りつかなくなる。私がなにをしたというのか。でも鏡を見て気づいた。私の笑顔は気持ち悪い。本当に醜い。腫れぼったい目、たるんだ肌、角張った頬、歪んだ口。こうなったのはあいつらのせいだ。

 きれいであればバカ女でも幸せになれる。醜い生き物には仲間はいない。居場所なんてない。どこにもない。

 私は呪いになる。呪いそのものになれば、誰かが呪いを必要としたときに私を思い出してくれる。私は必要とされ、ずっとずっと永遠に生き続ける。私はずっとずっと心から願っていた、誰の役に立つという希望も叶えられる。ありがとうといわれて人をしあわせにできるかもしれない』

 別の日の日記には『やっとレシピは完成した。強烈な呪いをかけた私の髪の毛をどれくらい小さくしてあめに入れられるかが鍵になるようだ。

 誰かに試したい。犬はあめ玉を食べてくれるだろうか。

 ああああ、また母がヒステリーを起こしてる。ああ、うるさい。やかましい。なんであの人は、母を止めないんだろう。そうだあの人に試そう。次は母だ。その次は兄。いや、兄にはお金を稼いでもらう必要があるから、もう少しまとう』と書いてある」

 奈々がそういうと、田中はふたりに頭を下げた。

「まさか本当にナナの呪いが、広まっているなんて考えてもみませんでした」

「ということは、あめには呪いがかかっているってこと? それを舐めるとアフロばばあが現れて頭をかじって髪の毛を抜いて殺しにくるってこと? でもここにレシピがあるのに、なぜ広がったのかしら。ナナさんは随分前に亡くなっているんですよね」

「もしかしてガチャガチャなんて、持っていませんでしたか」

とタケルがいうと、田中さんは驚いた表情を浮かべた。

「遺品を整理していたら高さ15センチほどのガチャガチャが出てきました。中にはカプセルがいくつも入っていたので、オークションサイトに出品したら東京の古物商が買っていきました」

 すぐに奈々は古物商に電話を入れた。古物商は商品のことを覚えていた。店に飾るなり、すぐに商品に魅せられるようにやってきた近所の主婦が買って行ったそうだ。

「名前はわかりますか」

「返品のご相談? あんなのゴメンだよ」

 とよくわからない返答が帰ってくる。怒っているというよりも、怖がっているような言い方だった。

「あんなのというと?」

「いや……関係者じゃないよね? よくわからないんだけど、中に入っているカプセルトイを上から取り出そうとすると、必ずくぐもった……うううううという声が聞こえてくるんですよ。スピーカーで仕込まれているのかなと思ったら、そうでもない。

 電気がチカチカしてきて……地鳴りのように揺れるんですよ。でも、ふたを閉じるとおさまる。私は恐ろしくなってねえ、そうしたら近所に住む奥さんが買ってくれたんですよ」

「名前はわかりますか?」

「さあ、何だったかなあ……」

 古物商の主人との電話を切ると、田中が泣き崩れた。「僕がナナの味方になっていれば、こんなことには……」

「顔をあげてください」

 奈々は田中の前に仁王立ちになった。

「あなた方家族は、最低です」

「ちょっ、そんなはっきりと……」

 タケルは焦って、奈々の前に立った。奈々は払いのける。

「あなた方家族が日々してきたことは虐待です。実際に手を出していなくても、傍観者も同様です。ただでさえ見た目で苦しんでいたのに学校でも無理に笑って、家でも居場所がなくて。何かにすがりたくなる気持ちもわかります。でもやり方がよくなかった……」

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そのとき奈々のスマートフォンが鳴った。編集長からだ。

 素早く出ると、編集長は早口でいった。

「橋村中央小学校って、一樹くんが行ってる学校だよな。子どもたちがアフロばばあ化して、病院に搬送された」

 編集長の電話口から自動車が走る音が聴こえた。どうやら外で話しているようだ。

「アフロばばあ化とは、頭をかじるってことですか?」

「いや、ちがう。髪の毛が異常な速度でアフロになっていき、眼球が消えてしまうそうだ。そして目の中に手を突っ込みたがるらしい……。ものすごい身体能力で人間とは思えない。怪物のようだと言っていた。拘束しているが、多くの子は、アフロになって7時間で亡くなっている。ただ生き残った人もいたそうだ。その子は、家にいた子で……なぜか母親もアフロになって。子どもをかじって殺してしまったらしい」

「なんてこと! もしかしてアフロになる前に、誰かからあめ玉をもらったと言ってなかった?」

「それはわからんな。でもアフロ化した生徒たちはみんな、その前日に広場で紙芝居を観たといっていた。そこでお菓子が配られたそうだ。もしかしたら、そこで配られていたお菓子に秘密があるのかもしれない。当たってみるよ」

 それは紙芝居の関係者がお菓子といって呪いのあめを渡したのではないか。親は見ていなかったかもしれないが、帰宅後にアフロばばあが現れていたのかもしれない。

「一樹にかわってくれますか」

「あ……あと。写真をSNSにアップしたやつ。事務の佐藤さんだったよ。俺が……君と付き合っていると……公私混同していると思ったらしい。最初は、ちょっとした悪ふざけのつもりだったけれど、ことが大きくなってしまい、かなり慌てていた。申し訳ございませんでしたと謝ってきたよ。辞めてもらった」

「そう、ですか」

 うっすら、春美ではないかと思っていた。

 有休申請のために出社した日に対応したのは、春美だった。だから出社したことはわかっていたはずだ。

 退社する時間、他のメンバーは忙しかったが、事務の春美はそうでもなかった。それに先日、電話をした際にでたのも春美だ。編集長に代わってもらい、その直後に、SNSに顔写真がアップされてしまった。春美は編集長が好きだからおにぎりを作って、けなげに尽くしてきた。彼女はタイムカードを管理する立場にあるため、奈々と編集長がよく一緒に帰えっていることを知って、よからぬ想像をしたのだろう。

 だが許せることではない。

「一樹くんにかわるな」

 室内に入ったのか、ドアが開く音がした。しばらくすると母がでた。

「編集長さんの家に連れてきてもらったのよ。ありがとう。今ねえ、一樹、さんざん遊んでもらって疲れちゃったのかしら。1時過ぎにあめを舐めて……」

「あめ! それ、どこでもらったの」

「紙芝居を観たときにもらったのを忘れてたって。でもおかしいのよ。寝て1時間ほどしたら、一樹ったら寝ぼけてね。グッと上半身を起こして、誰もいないのに『ありがとう』と話しだして……あめを舐めているようなそぶりをするのよ。食後に食べたあめ玉、そんなに美味しかったのかしら。それに……なんだか髪の毛が伸びてきているように思うんだけど」

「それはいつ頃から」

「2時過ぎくらいかしら……髪の毛、あなたに似てきたわねえ」

 冷気がはき上がってきた。一樹のもとにも、アフロばばあがやってきたようだ。そしてアフロばばあから取りだしたあめちゃんを、一樹は口にした。編集長によると、アフロばばあ化してから7時間後に、その子どもは亡くなるらしい。

 時計を確認すると、時刻は午後5時7分。あと3時間ほどで一樹が死んでしまうかもしれない。

「母さん、無駄かもしれないけど一樹を病院に連れていって胃洗浄をして。私、すぐに帰るから!」

 電話を切った。
(つづく)

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【これまでのおはなし】
・アフロばばあ 1話「序章」https://note.com/natukuma/n/n01491021dd02

・2話はこちら↓

・3話はこちら↓

・4話はこちら↓


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