【物語】ノートを届けに
中学1年生になった私には、譲れないマイルールがある。
「宿題+1ページ」ルールだ。
ルールは簡単。
毎日、宿題のほかに自主学習ノートを進める。
題材は自由だ。
ワークの問題を解くもよし。
単語を書くもよし。
自作テストを作るもよし。
教科書まとめをするもよし。
どうしても忙しい日は、前日か翌日に2ページにする。
始めたきっかけは些細なことだった。
テストでケアレスミスが減らなかった。それだけだ。せっかく難しい問題が解けても、基本問題で失点するのだから点数が伸びない。
その時、私は私を知った。
私がテストで平均点以上とるためには、人の2~3倍努力しなきゃいけないのだと。中学生になって「順位」がハッキリとわかった時、私はそれを自覚した。
みんなが宿題をやって覚えるのなら、
私はそれより多くやる。
みんなが1時間で習得するものなら、
私は2時間かかけて理解する。
自主学習ノートには、毎日やった証拠に1番上には日付を入れた。
サボらないように。
努力を怠らないように。
私は人の倍やって、やっと一人前なんだ。
そう思って、勉強をしていた。
春休みなのにしんしんと雪が降る、ある日。
炬燵で本を読んでいたら、ルルルル、と電話がかかってきた。電話をとった母がつぶやいた。
「先生?」
私の背筋に冷たいものが流れた。
何だろう。
何かしちゃっただろうか。
不安に思う私に、母が受話器を渡した。
どうやら、先生は私と話がしたいらしい。
震える手で受話器を握る。
「はい。」
「れなさん?ちょっと頼みがあって、、、」
先生の話はこうだ。
1、担任の先生は、今度勉強会をする。
2,担任の先生はその勉強会で、私の自主学習ノートを他の先生に見せたい。
3,今後の参考にするから、もしよかったら先生に預けてほしい。(いつ返却できるかわからないんだけど、とのこと。)
先生が私の自主学習ノートを見たがっている。
誇らしい気持ちになった。
「分かりました!今持っていきます!!」
先生に頼られている。
それが無性に嬉しくて、私は押し入れの奥に入れっぱなしにしていた自主学習ノートを、引っ張り出した。
1冊目から15冊目と書かれている、
カラフルな自主学習ノート。
埃を被っていたそれを丁寧に払ってスクールバックに入れた。そして、モコモコの上着を着て、モコモコの手袋をして、モコモコのマフラーを巻いた。
「いってきます!」
そして、私は出かけた。
春休みとは名ばかりで、まだまだ雪が降っている。3月なんてまだ冬なのに、どうして春休みと名前がついているのか。私にはさっぱりわからない。寒いし、重いし、疲れる。でも、学校の先生が私の自主学習ノートを見たいと言ってくれたことが誇らしくって、ルンルン気分で学校に向かった。
生徒用の玄関が空いていない。仕方なく、職員室側の入口から中に入った。なんだかソワソワする。いつも入らない場所から学校に入った私は、廊下を忍び足で進んだ。
生徒がいない校舎は、冷え切っていた。外よりは暖かいかな、という程度。靴下で歩く学校の廊下は、1歩進む度、足がじんじんしてきた。
廊下の端に、少しだけ温かい風が漏れている職員室の扉を見つけた。
2回、ノックした。
直ぐに担任の先生が出てきてくれた。
「れなさん!寒いところ、来てくれてありがとう。」
担任の先生が、にこやかに出迎えてくれた。
先生が自分を見てくれる。
それがただ嬉しかった。
頷いてノートを渡した。
「ちょっと見たいから、少し待っていてくれないか。」
先生がそう言って、私を職員室の豪華なソファーの上に座らせた。
真っ黒で大きなソファーにちょこんと座る。ツルツルと滑らかなソファーに座ると、私はずり落ちそうになった。そんな私を、ふわふわなソファーは、中途半端な場所に埋めた。半分落ちかけている姿勢のまま、精一杯背筋を伸ばした。また、ずり落ちそうになった。
ソファーの上で、じたばたと居心地のいい場所を探していたら、いつもしかめ面で授業をしている国語の先生がそっと近づいてきた。ちょっとドキッとする。
でも国語の先生は、優しい笑顔で私を見た。
「れな、わざわざ冬休みに来てくれてありがとな。」
国語の先生も、私が自主学習ノートを届けに来ることを知っていたらしい。
感謝の言葉をもらえてにっこりする私に、国語の先生は紙コップを渡してくれた。小さな紙コップには、温かいココアが入っていた。
普段めったに入ることができない職員室。
先生に気軽に話しかけられたことなんて、今までなかった。
私は、特別なソファーに座って他のみんなに内緒で出されるココアに舞い上がっていた。
自主学習ノートなんて、自分のためにやっていたことだ。容量が悪くて半人前以下の私が、一人前のふりをしたくて始めたことだ。
不器用で、頭の回転が遅くて、もたもたしていて、のんびり屋さんの私が、それでもみんなに追いつきたくて始めたことだ。
それが、こんなにも私を幸せにする。
褒められて嬉しそうにする私を見て、先生たちがにこにこしていた。先生たちが楽しそうで、私はもっとにこにこした。
ココアがなくなったころ、担任の先生に呼ばれた。
「れなさん、今日は本当にありがとう。これ、他の人には内緒で受け取ってほしい。」
学校の先生から、1冊のノートを渡された。日に焼けて茶色になった表紙のノートだ。少し年季の入ったノートは、中学生の私にとってまるでアンティークのようで、素敵に見えた。
思ってもいなかったプレゼントに、私は胸がいっぱいになった。
「先生、ありがとう!お礼に、自主学習ノートあげるね!!」
先生は驚いて、戸惑った。
でも、私は引かなかった。
私にとって15冊の自主学習ノートは、〈使い終わったノート〉だ。
でも、きっと先生にしてみたら、〈これから使いたいノート〉なのだ。
私の自主学習ノートは先生にとって、私が先生からもらった新品のノートのように、〈これから〉が詰まったノートなのだ。
「先生、今日はありがとうございました!!!」
先生に何かがあげられて嬉しかった。
だって、今日は先生からいっぱい嬉しいことをしてもらったから。私はにっこにこの笑顔になった。それを見た先生は、〈先生〉らしくない顔で笑った。
それはそれは、にっこにっこの笑顔だった。
「れな先生、明日の研究発表のことなんですが、、、」
私は明日の予定に向けて、最後の確認をしていたことを思い出した。
懐かしいことを思い出した。
静かな職員室。
その窓から中庭の桜の木を見た。
そして、その桜の下で楽しそうに遊ぶ子供たちを見た。
賑やかで、
華やかで、
愛しい景色だ。
今ならわかる。
先生は、私の自主学習ノートを研究の材料として使いたかったのだ。
中学1年生の子が、毎日欠かさず書いていた自主学習ノート。定期テストや単語のテストも意識していたそれは、1年間の学習の記録になっていたのだ。5教科だけじゃない。定期テスト前には技能教科も勉強していた。
中学1年生の勉強のまとめや定期テストまでの学習進度も網羅していたそれは、お手本のような自主学習ノートだっただろう。
今ならその価値がわかる。
「先生」になった今なら。
きゃぁ、と可愛らしい悲鳴が上がった。
中庭に風が吹いた。生徒たちがスカートを押さえながら、楽しそうに笑っていた。
今ならわかる。
「先生」になった今なら。
あの時、どうして先生たちがあんなにも暖かく迎えてくれたのかが。
あの時、どうしてふかふかのソファーに座らせてくれたのかが。
あの時、温かいココアをくれた気遣いの向こうにあった気持ちが。
あの時、1冊のノートをくれた葛藤とお礼の訳が。
あの時、先生がにっこにっこの笑顔を浮かべていたその本心が。
桜が舞う4月。
始めての研究発表を前に、ドキドキしながら私はノートたちを抱えた。
大丈夫。
私は、私の生徒が貸してくれた、暖かいノートを抱きしめた。
中学2年生の男の子が、毎日つけた22冊の自主学習ノート。まるで昔の自分のように、快くノートを貸してくれた男の子の笑顔を思い出す。
明日の資料を確認しながら、私はにっこにっこの笑顔を浮かべた。
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