【物語】裏庭から愛をこめて
「こんにちは~!」
裏庭で竹ぼうきを手に紅葉を掃除していたら、青年の声がした。
声がした方に目を向ける。裏庭と外を隔てる竹垣の向こうに、ジーンズに黒いパーカーを着た大学生くらいの子がにこやかに立っていた。
私は、竹ぼうきを地面に置いた。懐に入れていた手ぬぐいを取り出し、シワが刻まれた手を拭った。こんな老いぼれ爺のところに若い子がきたんだ。身綺麗にしておきたい。
「こんにちは。見ない顔だね?引っ越してきたのかい?」
そう言いながら、私は青年のほうに歩みを進めた。掃ききれなかった紅葉を踏みながら歩く。進む度に紅葉が足元を行ったり来たりした。
竹垣越しに青年に向き合う。青年は人懐っこい笑顔で私に話しかけた。
「実は、昨日隣のアパートに引っ越してきたんですよ。あ、これ。おれの地元のお菓子なんで、よかったら食べてください。」
青年は、私に銘菓の箱を見せた。
懐かしい銘菓だ。
「これは親切にありがとう。だが、私は一人暮らしでね。こんなにたくさんは食べきれないよ。よかったら、食べていかないかい?」
私は、竹垣にある出入り口を開けて、青年を招いた。
「え、いいんですか?嬉しいな。おれ、このお菓子好きなんすよ。」
青年は、猫のようにするりと出入り口を抜けて、裏庭に入ってきた。青年は私にお菓子を手渡す。
私は青年を裏庭に面した縁側に案内し、そこに座ってもらった。
青年は、興味深そうに紅葉を見ている。私はそんな青年に一声かけ、お菓子の箱を手にキッチンに向かった。
急須にお茶を入れて、お菓子の箱を空ける。
そこには、満月のような美しい銘菓が並んでいた。
『見て、あなた。私の手に月が乗っているわ。』
老いてなお、少女のように笑った妻を思い出す。
あいつは、これが好きだった。
少し感傷に浸りすぎたようだ。
急須のお茶が苦くなる前に、青年のもとに戻った。
青年は、相変わらず紅葉を見ていた。
だが、その表情には先程の人懐っこい笑顔の面影はない。何かを決意したような、悩んでいるような、苦し気で、真剣な顔だ。
きっと、何か事情があるのだろう。
私は、知らぬふりをして青年に声をかけた。
「お茶とお菓子を持ってきたよ。」
「お!ありがとうございます!!」
私の方を見た青年は、人懐っこい笑顔に戻っていた。
私も縁側に腰を掛けた。
目の前の紅葉は、ひらひらと散っていた。
「おじいさん、ずっとここに一人暮らしなんですか?」
私が甘い2つの月を食べた後、青年が紅葉を見ながら私に聞いた。
「ああ。1年前、妻に先立たれてね。それからは、一人だよ。」
秋晴れの空を刺すように天辺に座していた紅葉が、木枯らしに攫われてはらりと木から離れた。花のようにひらひらと紅葉は揺れながら落ちて、庭を染める赤い絨毯の一部になった。
「そうなんすね。なんか、すみません。」
青年が、湯飲みの底を見ながら呟いた。
悲しい話を聞いたように、
寂しい気持ちになったように、
青年は表情を曇らせた。
「いいんだ。妻のことを話せる機会もなくてね。久しぶりにあいつのことを思い出せて、私は嬉しいよ。」
紅葉を見ながら思い出す。
「私は昔、お菓子職人でね。このお菓子を作る一人だったんだ。」
青年が、へーと気のない返事をする。
「その店に、妻がこのお菓子を買いに来たんだ。」
セピア色をした銘菓店が蘇る。
新しいお菓子を店に並べようと裏手から出た若い頃の私。
購入を決めたお菓子の箱をもったまま、私を見る若かった頃の妻。
目が合った時、「この人か。」となんとなく思った。
「それで、おじいさんが一目惚れしたの?」
その声に、私は頭の中の光景から戻ってきた。鮮やかな紅葉とからかうような青年の目が目の前にある。
「老人をからかうんじゃない。」
少し気恥ずかしくて、私は月の菓子を口に運んだ。淡い甘さが口に広がる。
不意に、自分が食べたせいで半分になった月を見て、笑った。
「一目惚れか。そうかもしれないな。」
妻を見た時、「この人か。」と思った。
同時に、「この人しかいない。」とも思った。
電気が走ったような衝動ではない。
他のものが目に入らない位に熱中したわけでもない。
ただ、泉の水が湧くような、静かな静かな愛だった。
「たった一度出会った人が忘れられなくて、その人が鞄につけていた紅葉のキーホルダーを思い出しながら、親父に頼んで、裏庭に紅葉を植えるくらいには。」
きっと、一目惚れだった。
生涯でたった一人に、ずっと一目惚れしている。
秋風が赤い絨毯を巻き上げた。
赤い蝶のように庭中に広がる紅葉。
「退職したら、ずっと一緒に居られると思ったのになあ。お前はせっかちなんだよ、もみじ。」
青年が驚いてこちらを見た。
私はその視線を感じながら、あえて青年のほうを向かずに紅葉を見ていた。
それを見た青年が、静かに湯飲みに視線を落とした。
ヒューヒュー、と冷たい風が強く吹きぬけた。
その風が、私のもとに一枚の紅葉を運んできた。わたしはその紅葉に手を伸ばした。
私の指先に触れた紅葉。
それを掴む。
そのまま、私は手のひらにそれを乗せた。
しわが刻まれた私の手に、鮮やかな赤が乗る。
手を握るように、それをそっと握った。
―――お前の話をしたよ、もみじ。
まあ、と目を開いて驚く妻の顔が、頭に浮かぶ。
私の顔を、青年が眩しそうに見ていた。
私はそれに気づかないふりをした。
青年が、さっと顔を上げて、鮮やかな紅葉の木を見た。その眼差しに、もう迷いはなかった。
私はそれに気づかないふりをした。
何も気付かぬふりをした。
あの日以降、私はまだあの青年に会っていない。
もちろん、取り壊しが決まった隣のアパートに新しい住人が入ったなんて噂も聞かない。
ただ、決意に満ちた目をしたあの青年の人生は、きっと素晴らしく輝くものになるだろう。
そんな予感がする。
↓この物語の裏話こちら↓