見出し画像

どうして「人間らしい」ではなく「人間臭い」なのか

その言葉が発されるとき、感じられているのは人間の「におい」であって、そこに人間はいない。人間が去ったあとの残り香としての「におい」だ。

「人間臭さ」という言葉があらわれたのは、今が人間の「におい」が急速に減じている時代だからだろう。その「におい」がどんなものかは知らない。ひとまず思うのは、この言葉の適用先が人間ではなくたいていはアニメや漫画のキャラクターだということだ。

人間であることを人間でないものから感じとる。彼ら彼女らキャラクターの人間臭さをめでる私たちはいったい何なのか。

「人間臭い」ことが魅力とされるなら、誰かしら嗅覚のある人間がそのうち「人間臭くない」ことの魅力について考えはじめるだろう。すでに考えはじめている気配はある。今は「人間臭い」ことに惹きつけられる時代と、「人間臭くない」ことに惹きつけられる時代の狭間にある。

「人間臭い」という言葉はその対象のもつ「人間」あるいは「人間性」をまず否定しなければ、その意味が起き上がってこない。その形容先がアニメのキャラクターになるのはそのためだ。彼らは人間ではない、という前提を私たちは共有している。

「人間臭い」という言葉を使うときその人間は、形容先のキャラクターの「人間性」を否定する以上に、自分自身の「人間性」を否定している、と言うのはさすがに悪意だろうけれど、すくなくとも「人間臭い」という言葉を出現させたこの時代が、ある種の「人間性」の否定のもとで動いているのはまちがいない。この言葉が人間の否定の上に成り立っている以上。

人間のにおいがまったくしない人間について考えてみる。「人間」たちはその先にあるものとして、「動物」をまず考えたのだろう。獣臭さ。それ以上に「AI」が私たちの念頭にのぼってくる。無臭。情報のにおい。嗅覚の欠如。

たとえば拡張現実による感覚の再現のなかで、嗅覚はおそらく五感のなかでいちばん後回しにされるだろう。いちばん最後までこの「現実」に取り残されるものが「におい」なのだ。

「人間臭さ」というこの言葉がこれから先、生き延びるのか、生き延びるとしたらどんな意味合いを帯びていくのかを想像すべきだ。といいつつも、すでにこの語には懐かしむような響きがこもっていると思う。もっとも最初からそうだったとも考えられるし、そもそもこの懐かしさから発してこの語があらわれたというほうが正しいのかもしれない。

「人間臭さ」という言葉は、人間から去ることではじめて使用可能になる。人間を失ってやっとその言葉の意味は起き上がる。けれども、このメカニズム自体がある種人間的なものだとしたら、彼ら彼女らは戻ってくる。のだろうか?

「人間臭い」という言葉は、人間の人間らしさが変わっていくなかで、その変質に呼応してあらわれた言葉なのかもしれない。

人間は人間を失うことによって人間に似ていく。だけど似ていくことしかできない。人間<みたいに><のように>。この<みたいに><のように>は私たちを人間につなげながらも、人間ではないものにもつなげている。<みたいに>etcは決してそれと重ならないことを、虚偽を含み続けるからだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?