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音のカンヅメ(SS No.63)

 「クジラの歌声」と書かれた缶詰。プルトップをパカっと開けると、消え入りそうなハミングが溢れ出る。白髪の魔女はそれをテーブルに置き、旋律に耳を傾けた。
 素晴らしい歌声だったが、彼女の険しい顔が和らぐことはなかった。

 昔の彼女は、好奇心旺盛で快活な性格だった。暇さえあれば箒にまたがり、刺激を求めて旅に出た。
 ーーそれがよくなかったのかもしれない。
 いつしか地上はただの庭となり、何を見ても心が動かなくなってしまった。
 ここ最近の魔女は、別人のように家に引きこもって日々を過ごしている。

 「音のカンヅメ」との出会いは、彼女を少しだけ明るくした。
 「極秘ルートで現地へ赴き、新鮮な音をパッキング。箒では行けない場所へあなたを導きます」と、商品カタログには書いてあった。
 ラインナップを見れば「大王イカのいびき」に「ミジンコのため息」「月の兎が餅をつく音」他、いろいろ。好奇心が膨らんだ。
 数年ぶりに電話をして10個入り詰め合わせセットを注文したのだった。

 しかしーーその成果は前述の通り。
 開栓前は物珍しさに胸が高鳴るものの、一度聞けば「ああこういう感じか」と満足してしまう。
 それだけだった。
 若かりし頃に覚えた感動とはやはり程遠かった。

 「クジラの歌声」が終わってしまうと、魔女はさっさと次の缶に手を伸ばした。
 ラベルには「半ばのカンヅメ」とある。
「地球の半ば、赤道のカンヅメってとこかしら」
 あまり期待せずにプルトップを開けた。

 ひょおぅぅう、音が耳元を駆け抜けると、
 魔女の全身に電気が走り、血が駆け巡った。
 聞き間違うはずがない。
 それは、箒に乗って風を切る音だった。

 魔女は弾かれたように物置に駆け込んだ。雑多な物の中から、かつての旅の友を探し出す。埃が着くのも構わずまたがれば、箒は、命が吹き込まれたようにぶるぶるっ!と震えた。

 「半ば」の缶からは、相変わらず風の音が流れている。魔女は、その奥にかすかに街のざわめきが混じるのに気がついた。港町なのだろうか、時折、カモメの声や船の汽笛ともすれ違う。
 「そうか、これは旅の半ばの音なのね」
 魔女は思い出した。
 初めて一人で箒に乗ったときのこと。地上から不安げに見守る両親に手を振って、隣街の時計塔にタッチして帰ってきただけ、ただ飛ぶことを楽しんだだけの、あのフライト。

 魔女は、おにぎりを作って愛用のリュックサックに詰め込んだ。
 目的のない旅に出るのだ。飛べるところまで飛んで、疲れたら帰ってくるだけの旅に。
 扉を開ければ、青い空が彼女を朗らかに迎え入れてくれた。

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