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漂う(SS No.62)

 目に痛いほど色鮮やかな熱帯魚が、珊瑚礁の間をかいくぐって、枯草色の魚を追い回しています。
 派手な方がオスで地味な方がメスだと、水槽横のパネルに説明がありました。

 ぼろぼろになるまで追い回され、疲れたメスは、仕方なく、といった感じでオスを受け入れまあたます。
 ことが済んでしまえばオスはーー心なしかすっきりしたような顔でーーメスの元を去っていくのでした。

 こんな気持ちのときでなければ、貴重な生態を観察できた、と少しお得に感じていたのかもしれません。私には、疲れきって漂うメスの魚が、他人事とは思えませんでした。
 水中に尾を引くオスのヒレが、煙草の煙のように見えました。

 「魚見てたら、お寿司食べたくならない?」
 傍らの親友の言葉が、少し救ってくれました。


 しばらく行くと、ミズクラゲの大水槽の前に来ました。
 見慣れた生き物ですけれど、黒い背景の丸窓にこれでもかと詰め込まれ、七色にライトアップされていると、立ち止まって見てみようと思うから不思議です。

 クラゲたちは緩やかな水流に流されて、洗濯槽のような水槽の中を漂っています。
 ときどき、ぶつかるものもありますけれど、他の魚のように喧嘩になったりしません。
 お互いにまるで興味がないのです。なんて気楽な生き方なのでしょう。
 私は久々に晴れやかな気持ちで、水槽の前にしばらく佇んでいました。

 分厚いクラゲのカーテンの奥に、ちらちらと、見え隠れしているものがあります。
 他のクラゲとは何かが違うようです。小エビでも入っているのでしょうか。
 でも、フヨフヨと動いているのは、どうやら触手のように見えるのです。

 暗い水槽の奥で輪郭がはっきりしませんけれど、違和感の理由はすぐわかりました。
 そのクラゲ?には、傘がないのでした。
 私はもっとよく見ようと、額をガラスに近づけて目を細めてみます。

「あっ」

 それは人間の手だったのです。
 魚の腹のように青白く、つるりとした手の甲。か細い指。女か子供の手なのでしょう。
 手首から上は、水に溶けるように消えています。
 ときおり伸びたり縮んだりしながら、クラゲたちに混じって水流に漂っているのでした。

 不思議と怖くはありませんでした。
 本当にただ流されることで満たされているように見えて、ああ、あの人もクラゲになりたかったのだなと思っただけです。
 もしかして、あと何周かしたら、手首の辺りから傘が生えてきて、本当にクラゲになれるのかもしれません。

 「ちょっと!」手を引かれました。
 見れば、親友がこちらを睨んでいます。
 私は、ぼーっとしている間にクラゲ水槽の前に取り残されていたのでした。
 「はぐれないでよ……」
 親友は少し赤らんだ瞳を逸らして、私の手首を強く引っ張りました。
 クラゲのように、私はなされるがまま、人間の海を漂います。

 去り際にちらりと見た水槽は、すっかり大量のクラゲのカーテンに覆われていました。

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