元彼の話は大衆酒場でした方が盛り上がる。

 朝起きたら、下記ブログ記事が話題になっていた。


 記事概要については、リンク先の記事で触れられているため省略とするが、この記事を読んで知った当該企画について、当初はよく見かける悪趣味な取り組みだと感じた程度だった。

 交際相手の話題をはじめ、特定個人についての事案を、同様な属性の人間として単純化・タグ付けし、話のタネにすることは、お笑い等TVショーから井戸端会議まで、各所で多用されている。
 これらは嫌悪感を持つ人がいる一方、共感や笑いを貰いやすい話題であり、ネタとして昇華している人の話術が評価されている場面も多々見受けられる。

 私自身は人並みの交際経験がないため、「元彼・元カノ」話に共感は皆無であり、そもそも趣味の作品を語る・批評する上で他者の存在を示す必要はないと思っているが、会社などでテキトーに会話をしている際は、同じような発言をしているかもしれない。

 よくある「作品は好きだけど、この作品のファン(/信者)は嫌い」の延長であり、普段であれば謝罪・釈明記事は読まなかったと思う。祝日で時間があったのが悪い。

 そして、当該記事への企画者本人からのアンサー記事がこれである。


 謝罪文の体を取っているが、イマイチブログ記事の懸念に対する回答にはなっていない釈明記事であると言わざるを得ない。

 私が一番気になったのは、三宅氏が好きという受容史を企画の趣旨としながら、企画の方向性が全く乖離していることである。

「どのように物語を受容したのか」という点について記録が残っていること自体に、とても惹かれるのです。おそらく物語そのものが残ることと同時に、その物語をどう読んでいたのか? という記録が残っていること自体に、胸がじんと熱くなるのです。

三宅氏ブログより引用


 「受容史」という言葉の定義はあやふやだが、古代ギリシア研究家の藤村シシン氏の「ゲームさんぽ」という動画で発信したのを機に、初めて見聞きした方が多いと思う。(言葉の登場した回が見つからなかったので、誰か教えて欲しい。)


 動画内では異なる時代・場所でのギリシア神話がどのように伝わってきた・受け入れてきたのか、という話の中で受容史という言葉が使われていた(と思う)。
 三宅氏も「万葉集」や「源氏物語」といった本邦古典文学を手に取った当時の人の感想を例に挙げて説明をしている。(受容の歴史を例示するのであれば当時の官僚や菅原孝標女の感想だけではなく、後年の時代の専門家の解釈や民衆の意見とからも取り入れて良いと思うが)

 読み進めていくと、次の一文が出現する。

そんなとき、(『君の名は。』がヒットする前の、という稀少な!) 新海誠監督の作品の魅力について語る男性たちのことを、私はよく知っている。そして新海誠作品好きな彼ら(とくくるのも暴力的なのでありましょうが)は、自分自身のことについて、客観的な目線で批評することはない。だからこそ私は私の周囲に今いるであろう「新海誠好きの元彼」をアーカイブする価値があるのではないか、と感じたのです。

三宅氏ブログより引用

 ごめん。わからない。
 これまでの文章と、当該部分の繋がりもわからなければ、当該部分の句点後の繋がりもわからない。接続詞が可愛そう。

 いや、言いたいことを解釈することはできるが、あまりも短慮な文章ではなかろうか。
 そして、受容史どこに行った…?
 このアーカイブに胸がじんとするのか…?


 「史」という言葉には、歴史全体の大きな流れだけではなく、ミクロな事象も含まれると思うので、「新海誠好きの元彼」がどのように受け入れられてきたか調査することもアリなのかもしれない。もしかしたら後年価値が出るものなのかもしれない。

 しかしこの記事では、
・私が保存する価値があると思う事象(皮肉的で悪趣味なテーマが既定されており、意見は当然偏るだろう取り組み) を

・私の周囲で探そう(一部限定的な界隈に募集した記録) 

と言っているようにしか見えない。これがアンサー釈明記事ではなく、直前までの文章だけを切り取れば、「新海誠作品」を各時代のオタクがどのように評価・受容しているか、という話に繋がるような前振りだったはずだが。


 釈明のために使われた菅原孝標女が泣いている。


 正直、自分に同調する意見を蓄集するだけの企画に「受容史」なんて格好の良い言葉を使いながら、釈明での趣旨もなんか的を射ないこの記事を読み続けるのも苦痛であったが、読み進めた。残念。祝日なので時間がある。


 この後、「同人誌が後世に残る価値が高い」や「権力を持って批判したいわけではないけど、直接ではなく公で批評し記録したい」という旨の話が続く。同人誌なんて制作にコストがかかり、頒布先も限定されているモノが、極端にWEB記事より優れている理由は私にはわからなかった。
 また、批評とは物事に対して行うものだと思っていたが、これだとただの人格批判ではないか。三宅に選択肢があったのであれば、権力にジャッジされた方が良かったとも思う。


 この後、企画の反省点が顕現する。

できるだけ皮肉っぽくできるように、アンケートを踏まえ、新海誠好きの元彼側の男性たちに集まってもらって座談会をする、そして自分の新海誠作品批評をおこなう、という目次構成を考えていました。

三宅氏ブログより引用

そもそも「新海誠好きの元彼」とジャッジして、それを笑う立場自体が暴力的である、という点はその通りだと私も考えています。

そもそも私は「新海誠好きの元彼」といった時点で「そんな彼と付き合っていた自分」を自虐する視線も含まれるものだと考えていました。

三宅氏ブログより引用

嗜虐も自虐もあり、でも付き合っていた思い出もたしかにあり、しかし別れた後のすったもんだもあり、そんな話も含めて「元彼」も「私」も痛み分けだよね、という構成にできたらいいなとぼんやり構想していましたが、そもそもタイトルから自虐部分の意図がまったく伝わらず、企画段階でこのような批判をいただいてしまうのは、私の力が及ばなかったところです。

三宅氏ブログより引用


 暴力的な立場であることを認識していながら「新海誠好きの元彼」というキャッチーなフレーズで盛り上がろうとしている、このようなスタンスではファンから意見されることも当初から想定できるはずである。
 その上でそれらと交際していたことを「自虐」するべきものと言い放っているのだから、きっと本人には悪気はないのだろう。自虐のニュアンスが伝われば尚のことファンには残酷な仕打ちだと思うが、そのような相続力の欠如も含めて批判されているのではないだろうか。


 最後のブログ筆者へのアンサーも含めて、そもそも持ち合わせている交際等々への価値観が大きく異なっていることから、反省や謝罪、謙虚及び真摯という言葉で取り繕うのであるのであれば、批判も傍目に皮肉っぽい路線で行けばよかったのに、と思う。出版の自由である。

 このアンサー記事は、文筆を生業としている人間としてあまりに稚拙な文章であったことを悲しく思う。いや、皆にも文筆の可能性あることを示してくれたのかな…
 とりあえず私の休日を返してほしい。

 余談だが、ブログ筆者は一人の新海誠作品ファンとして、多方に配慮しつつ、また繊細過ぎるのではないかと心配してしまう点は多々あるが、はっきりと自らの言葉で意見が綴られていて良かった。物語にはいつまでも真剣にありたいものである。

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