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HSPの頭の中。31歳で人生初のマッサージ店に行った

わたしはHSPである。特に、考えすぎて疲れるタイプのHSPだと思ってもらえればわかりやすいのではないだろうか。繊細……というより、とにかく「ひとつのことを考えすぎて3週くらい回ってしまう」ようなことが、悩みの種になりやすい。

そしてわたしは31歳なのだが、生まれてこのかたマッサージに行ったことがなかった。

とくべつマッサージに抵抗があるわけではなくて「行きたいけど、行くほどでもない」という感じで、その体験をおろそかにしてきただけのこと。

しかし、ついに先日、急に思い立ったかのように、生まれて初めてマッサージ店に行ってみたのだ。

自分の体のメンテナンスが苦手で、お酒を飲んで疲れやストレスを発散させたような気になって、逆に疲労を貯めるタイプの人間だ。マッサージを受けてみての感想はもちろんスッキリしたし、なんだか前より息がしやすいような気がする。

でも、一番おもしろかったのは自分の頭の中の騒がしさであった。

イメージが先行しすぎて、ギャップにうろたえる

わたしはどんなときも、まず「イメージ」が先行しやすいところがある。マッサージ店といえば、施術着のようなものを着るか、オレンジ色のバスタオル一枚にされるのか……などと、店を予約する前からいろいろとパターンを考える。

「体、張ってますねぇ。職業は何をされてます?」

「あぁ、執筆系の仕事しています」

「へぇ、やっぱりパソコン作業ですか?」

「そうですね……眼精疲労なんですけどついついスマホも見ちゃうし……」

最初の数分は他愛もない会話をしてから、徐々に沈黙していくのだろうか……などと、脳内でシュミレーションが勝手に始まる。

店に予約している段階で、このようなやり取りやその場の絵が全部湧いてくるので、イメージが先行し、それが定着しやすい。

しかし実際にお店に行ってみると、イメージとのギャップの連続である。

まず、バスタオル一枚にさせられることはなかった。テレビのドラマやバラエティ番組では、タレントさんが痛がる様子をエンタメとして楽しむ風潮があるが、そのイメージにまんまと乗せられていただけだったようだ。

ベッドは、一部分に穴が開いており、そこに鼻と口を当てて呼吸をしやすくする構造になっていた。わたしはうっかり目と鼻を穴に当ててしまったので、しばらく口を閉ざされて悶え苦しんでいた。口を閉ざされたままうつぶせになると、唾液が止まらず苦しくなるということを今日初めて知った。

イメージが先行しすぎるので、いつも実際の流れや空気との違いにビクビクしてしまうのは、わたしにとってはよくあること。ギャップに戸惑っているうちに、冷静にものを見たり注意を向けることができなくなり、変な失敗をする。

でも、年齢を重ねるごとに「大丈夫、動揺や失敗はするかもしれないが、大変なことにはならない」とわかるようになってきた。

「痛いです」と言うタイミングを逃し続ける

人生初のマッサージは結構痛かった。わたしが行ったのは、アロマとかオイルとかそういうのではなく、もみほぐし系のマッサージ屋さん。

だからなのか、わたしの体が石だったからなのかはわからないけれど、とにかく痛いところばっかりだった。

マッサージ師さんは「痛かったらおっしゃってくださいね」と声をかけてはくれたものの、その「おっしゃるタイミング」はとても難しいのである。

まず、マッサージといえば「痛いほうが効いている」という感じがするものだ。痛みと効果の正しい関係はわからないけれど、わたしは痛いと感じるくらいがちょうどよいというタイプである。

しかし「いたい」を通り越して「いだい」になる瞬間がある。猛烈に痛い場所がある。ただ、声を上げて「手を緩めてもらうタイミング」には慎重になるものだ。

そもそも、あの丸い小さい穴に口を突っ込んでいるし、今のご時世マスクは外せない。声を上げようにも、うまく声が出せない。

声を出そうとしたら「ぬん」とか「ぶっ」とかいう、変な汚い音が出てしまう予測はすぐについた。それはちょっと恥ずかしいのだ。だから「あの、ちょっと痛いです」「すいません、もうちょっと優しめで」とか、ちゃんと言葉として発することのできるタイミングをはかることに一生懸命になってしまう。

さらに、痛さよりもつらいのは、くすぐったさである。くすぐったさというのは、痛さよりも耐え難いものだ。わたしは子どもにくすぐられると、マジ切れしそうになるくらいにくすぐったいのが苦手である。子どもたちは、それさえもおもしろがってくすぐってくることがあるが、わたしは全力で暴れて逃げる。

しかし、マッサージ中に猛烈にくすぐったくて叫びそうになる瞬間が何回かあった。

ただ、「いたいです」よりも「くすぐったいです」という言葉は長く、発音しにくい音の並びをしている。それに、くすぐったいときの声色をそのまま出すというのは、わたしとしてはとても恥ずかしい。でも、くすぐったいという事実を、くすぐったくなさそうに言うことは非常に難しい。

「もうだめだ、我慢できない」と声を出そうとすると、次の瞬間マッサージ師さんの手が放れる。痛さとくすぐったさに耐え、がまんできずに声を上げようとした瞬間、手が離れる。その繰り返しを何度も、自分の頭の中で眺めていた。

「申し出る」ということは難しいものだなと改めて思った。

さっき会ったばかりの人が、自分の上に乗っかっているんだなぁ

背中や腰といった部位を施術するときは、マッサージ師さんが私の上にのっかる。これがとても不思議な感覚だった。

「さっき会ったばかりの人のお尻が、私の腰の上にあるというのはとても珍しい状況だなぁ」と感慨深くなってしまった。

それが、嫌だとか不快だとは思わない。ただ、知らない人のお尻が私の腰の上にあるというのが、おもしろいなぁと思った。

このマッサージ師さんは、毎日毎日他人の体と触れ合っているんだなぁと思うと、いろいろなことがそこから連想ゲームのように広がっていく。

店には私とマッサージ師さん以外に人の気配がなかった。この人はこの店を一人で回しているのだろうか。予約したとき、予約が詰まっていてこの時間にしか入れないと言われたのを思い出す。1時間刻みで、こんなに痛い指圧を何時間続けるのだろうか。

この人は、家に帰って誰かにマッサージをしてもらえるのだろうか……してもらえていない可能性のほうが高いだろうな。見た目はとてもきれいで、品の良い中高年の方だ。1日中誰かのマッサージをして、そのあと夕食の支度をするのだろうか。すごいなぁ、わたしには難しい。チップでも渡したくなるけど、そんなことする人はきっといないので変な空気になるだろうな。年上の人にチップを渡すなんて、逆に失礼にあたるかもしれない。あぁ、チップという制度が日本でももっと広まったらいいのになぁ。

などなど、頭の中の連想ゲームは止まらない。何も考えないというのは難しいなと、思った。

わたしのためだけに1時間も体力を費やしてくれる

1時間もこんなに人の体を押したりもんだり引っ張ったりして、疲れないのかな……「手が痛いなぁ」とか思っているのだろうか。

そんなことを考えてしまう一方で「わたしのためだけに、1時間も体力を費やしてくれている」という事実に感激する自分もいた。

1時間も寝転がったままでよくて、凝ったところをほぐしてくれるなんて信じられない。

わたしはどちらかというと、普段家族のコリをほぐす方の人なのだが、あれを1時間もやってと言われたら申し訳ないけれどお断りする。

一方、子どもたちに肩たたきを頼むと、せいぜい1分くらいの間、やみくもに叩いて「はい、100円」とせびられたりする。それも、申し訳ないけどお断りだ。

そんなこんなで「自分のために1時間、体力を使ってくれる」ということに、うっすら感激している自分もいるのだ。痛かろうがくすぐったかろうがなんでもいい。

お金で何かの体験を買うというのは、とてもいいことだなぁと、31歳にして子どものようなことを思った。

HSP特有かどうかはわからないが、わたしの頭の中は、常にこんな感じである。






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