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短歌におけるエモってなに? [日記と短歌]24,7,16


感動に耳をすませば途中下車したことのない街からの音/夏野ネコ


エモーショナル禁止令、という名の短歌ネプリに参加しました。総勢88名の歌人がそれぞれに思うエモーショナルを封印して歌を詠む企画です。

で、作歌にあたって思うわけです。禁止するからにはそのエモーショナルをまずは定義しないとならんよね、と。ふむ。

エモーショナル(英語表記)emotional
[形動]感情に動かされやすいさま。感情的。「エモーショナルな言動
[類語]鋭敏過敏敏感神経質多感繊細聡い感じ易いセンシティブデリケートデリカシーナーバス細心

(デジタル大辞泉)

と正面から行っても語釈として大きいので、そこから派生して日本語化した「エモ」「エモい」をひとまず禁止しようと思いました。とはいえエモいってなんだよ。

emotionalを短縮して「エモ」、ひいては「エモい」と一周回って形容的に扱うようになったのはここ10年くらいかな、という印象を持っています。ルーツとしてはエモーショナルロックの台頭があるのかな。

ある種の叙情的風景/視覚/言語表現/場面などによって引き起こされる情感、哀愁、なつかしみ、など、感覚として近いのはポルトガル語の「saudade」だろうかと個人的には睨んでいますが。

日本語においては「をかし」「あはれ」「えもいわれぬ」と通じているとの解釈もあるようですし実際ただしいと思うものの、それを言い始めると無駄なものや役立たないもの、見えていないものに美と情感を見出す全てに当てはめられるので、そもそも短歌表現それ自体が「エモ」ということになる。無理じゃん、エモ禁短歌そのものが原理的に成り立たないじゃん、これは困ったぞ!

なので今回私は「狭義のエモ」と捉えることとしました。
ヒントはやっぱりエモーショナルロックで、多くの人々が共感し体験を共有しやすいであろう類の言葉やシチュエーションを「狭義のエモ」として考えたいと。

理解までに距離があり、でも理解した瞬間に景が出現するような詩的体験「ではなく」、あらかじめ感動や情感への文脈がセットされている言葉たちとシュチュエーションです。そやつらを禁止するというのが今回の私のエモ禁でした(無論それらを否定するわけではありませんよ!)。
たとえば夏、花火、雪、桜、別れ、死、恋、ひとみ、光、夕立、血、みたいなものたちとそれに付随する情感的な場面設定ですね(たいへん雑なのは申し訳ありません)。

最大多数の最大感動、みたいなものをもたらす、言ってみれば理解者の多い、共感度数の高そうな表現および場面といえばいいのか…。仮にこれらを扱うとしても、全く別の意味と文脈の中においてのみ使おうと、そう思いました。例えば「火のようにさみしい」とかそういう表現ですよね、いやでもこれめっちゃエモいな。(※清水邦夫さんの著作「火のようにさみしい姉がいて」より)

そんなわけで新作3首、ネプリに載せていただいたわけですが、今回エモ禁での気付きは「短歌はなにをどうやっても普通にエモい」という事実の確認でした。「あはれ」「をかし」的なものをもエモとする広義のエモでは当然そうです。

そこで仮にエモくない短歌を作ろうと思ったら例えば「東陽町南砂町西葛西葛西浦安南行徳」みたいな文字列ものとかが一つありそうだけど、57577のリズムをここに発見して面白がっている時点でエモいので、短歌のフォーマットにしている限りもう広義のエモからは逃れられないのではないか、と思います。ましてハナモゲラ和歌などに至っては何をか言わんやといったところです。

みじかびの きゃぷりきとれば
すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ

(大橋巨泉/パイロットTVCMより)

まあ、これをエモいと捉えるかは意見が分かれそうですが(少なくとも「をかし」くはありますよね)。

でもこんなクレイジーなコンテンツを編み出してそれを面白がる国民性を持つような人々が千年以上かけて練り上げてきた無敵級のフォーマットだぜ、57577はよ、ってことはわかる。わかりすぎる。

そのような気付きを得たのでとても学びになったエモ禁短歌は、だから非常に楽しかったです!という、はい、以上報告でした!

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