チベット短歌記〜河口慧海の歌を読む:3
明治時代、仏教原典を求め単身でチベットへ潜入した僧侶、河口慧海。その旅が記された「チベット旅行記」の中で詠まれた歌を鑑賞するこころみ、第3回です。
マガジンはこちら 趣旨はここに
ダージリンを出発した慧海。今回は釈迦の聖地、ブッダガヤを経てインドよりネパールへの国境を超えていく旅です。
釈迦が悟りを開いた場所で同じく坐禅を組んだり、途中で出会ったラマ一行とジャングルを越えたりしつつネパールの首都カトマンズへ、さらにヒマラヤの麓まで。出会ったり別れたりしながら旅は進みます。
そうしてネパール西の都ポカラより、ようやくヒマラヤに入るのですがまだまだ序盤。
ところでこの序盤の山麓は、現在ではヒマラヤトレッキングの人気コースになっているようです。慧海の歩いた道を1世紀後の旅人は、まぁ気楽に歩いているんですよね。でも巨大な雪峰が眼前に迫る風景はきっと同じなんだろうな。原文で「魚尾雪峯」とあるのはマチャプチャレのことで、ヒマラヤの入口に立つ印象的な山。頂上が魚の尾の形をしていることから魚尾雪峯、なんですね。
さて雇った荷持が実は強盗だったなど、まぁ紆余曲折もありながら歩みを続ける慧海です。
荷持が強盗だったとか紆余曲折で済ますなよ、とも思いますが、それが本当に些細なことに思えるのがこの物語の面白さです。全然大した事件じゃないんだ、これが。他がすごすぎて…
では今回は、聖地ブッダガヤで坐禅を組むところからです。なんか坐禅していたら夜が明けちゃったらしいですよ?さすがの集中力だ…。そんな時に「ふっ」と歌が出てくるの、なんかいいですね。
でた「をしぞ」!、格助詞+副助詞+係助詞、の助詞コンボ(ですよね?)。
しぞ、の強調でそこまで強く「明けゆく空の星」へ何を思ったんでしょう。釈迦が悟りを開いた聖地で坐禅を組み、気付けば薄明の月が菩提樹に。そうして明けていく夜を悟りに擬えたのは想像できます。では対する星と月との関係はどうだろう。
夜明けと同時に消えゆく星をこそ「強く」思うのは、あるいは釈迦の悟りが宇宙へと波及する巨大な姿が見えたんでしょうか。してみると月は悟りへの触媒みたいな位置付けに思えてくる。弘法大師は日輪に対する月輪をして、悟りを求める人の菩提心と説いたといいます。大乗を奉ずる仏教者ならではの月の位置付けで、そう思うと味わい深いですね。
そうしてブッダガヤを後にした慧海、いよいよネパール国境へと進みます。
状況の説明が必要な歌です(慧海の歌はわりとそうなんですが…)。ネパール南部のタライ地方は亜熱帯の低地。帯のようにインドとネパールとの間に横たわるこの平原を横断している時、川のほとりで虎の声を聞いた、という場面です。案内者によると、肉を食って川へ下りてきている時の虎の鳴き声なのだとか。それに慄いた歌なのでしょう。
個人的には「おどろにうそぶく」は虎ではなく、歌に表れていない主体にかかっていると見ます。なので「うそぶく」と「虎」の間で区切って読んでみよう。見通しの効かない不気味な月夜のジャングルに虎の鳴声を聞きつけ、いや平気よ平気!、と虚勢を張りつつも川で虎と繋がっている気味悪さから逃げられない感…もう何度も言うようですが可愛いですよね。月の「清」と川の「澱」の対比もいい感じと思いました。
そんなわけでネパールに入国し、ヒマラヤの麓を進み始めた慧海です。続けて2首、どうぞ!
つづらおり、って「羊腸折」て書くのか!全然知りませんでした!
ともあれヒマラヤに足を踏み入れての2首は、さみしい山の風景にホトトギスが鳴いているなぁ、と言うほとんど同じ手触り。ん?どうした慧海、って感じで、さみしさ+ホトトギスがこの人の中で直結しているような気も。この先でまた一回出てきたらもうテッパンだろうホトトギスの歌、ちょっと読みほぐしてみましょう。
ホトトギス1首め、この歌の前に慧海は急峻な絶壁の続く岩場の道で落馬し、腰を痛めえらい目にあっていたりします。曰く『私達は世に謂いう深山幽谷というのは真にこういう所を言うのであろうというような恐ろしい深山幽谷の間を歩いて参りますと、カックー、カックーという杜鵑の声が幾度か聞こえます(河口慧海 チベット旅行記より)』とありました。
うーん、これはけっこうシビアな状況で感情としてはネガティブですよね。
で、次の「行き暮れて」の歌は前の歌のおおよそ半月ほど後でしょうか、実は自分を狙っていた強盗荷持ちをどうにかクビにし、ようやく気のおけない感じで旅する状況になってからの歌です。
来た強盗!って、いや雇った荷持二人が強盗で、酒に酔っては互いの悪事を暴露し合い喧嘩の末に正体あらわすという落語みたいな展開が1ページにも満たないとか実に軽く扱われており、この本の濃度をよく体現していると思うわけですけれども、それはそれ。ホトトギスを歌った2首目は、身軽になった慧海が割と気分良く詠んだ風が伺えるんですよね。
曰く『深い谷間には檜葉の木が沢山生えて居りますが杜鵑は月の出たのを悦びてか幽邃なる谷の間より美しい声を放って居ります(河口慧海 チベット旅行記より)』などと風流キメて詠んでいるのが楽しそう。見える風景は同じなのに、1首目の「恐ろしい深山幽谷」とはえらい違いだ。
似たような景色の似たような2首が、状況としては逆から生まれているのが面白いです。心が動いたら、それがポジでもネガでも、とりあえず目の前を描写する日記的な歌法がそうさせるのかもしれません。にしてもホトトギス好きすぎだろう。
はい。今回も読んで参りましたが!
そうですね、今回の歌は少し薄味だったかもしれません。菩提樹の歌はともて素敵ですが、私の解釈も仏教語にあたってようやく類推できたので、一読では普通に夜明けの風景としか見えないかもですし、うーむ。
いや私ごときが判定するのもどうかとも思いつつも、まぁ言ったら平凡な感じを受ける。むろんその中に独特のチャーミングさや時々の思いの滲みをキャッチできたとき、歌はとたんに輝きだすのも確かですが。
で、立ち止まる。あるいはこの人は上手下手とか大して意識していなのでは、と。時々の出来事、見た感じたに心の動きが一定を超えたとき、それらが31文字になるのが半ば自動化されているようにすら感じる。おそらく慧海にとっての歌は文芸というより、自らの行動に対する出力としてセットされているんじゃなかろうか。だから直接的な、言ったら「まんま」な描写が多いのかも…。
見たままを衒いなく表現するのは自然主義に通じますが、それにしても見たまんますぎる。まぁ芸術的優劣をつける価値観は既に大幅に超えちゃってるからいいのか。なんだか無垢な子供の目線のようで、歌のフィルターを通すと超人慧海がどうにも可愛く見えてしまう。好きだな、この人。
チベット旅行記はパブリックドメインなので青空文庫で読めます。Kindleでも0円!