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連作短歌:バスタブ心中


バスタブの底で彼岸に目をひらき気泡よ空へ命を注げ

君がまだ君だった頃くちびるはこんなに赤く熟さなかった

水中で乳房は上を向いておりおんなのままで時間を止める

ガソリンを満たす湯船に火をつけて裸のままで忘れられたい

仄暗い闇たちと待つ心音の二重螺旋が止まりゆくのを

有機物二体の冬を終わらせる確信的な春の復讐


 高校三年生のときだったと思う。
 東京の大学へと進学した二歳上の姉がその日は家に帰ってきていたので多分夏休みのことだ。
 東京帰りの姉は思ったほど垢抜けてはいなかったけれど、でも元々顔立ちの良い人だったので、高校生だった二年前に比べて随分と綺麗になっていた。その日は父も早い時間から帰ってきており、姉とビールを飲みながらやたらと楽しそうにしていたそんな風景になんだかむしゃくしゃしてしまい、私はさっさと二階の自室に下がって受験勉強の続きを始めることにしたのだった。

 母が生きていたらこんな風にはならなかっただろうか、と思う。
 私たち家族はもう随分前に母を亡くしており、父が男手ひとつで姉と私を育ててくれたそのことには、感謝している。姉も小学校の頃から家事をこなし、ピースの欠けた三人家族の中で母親のポジションを一生懸命に果たそうとしていた。
 姉は母の代わりを勤めることで父のそばにずっといられると思ったんだろうか。少なくとも私はそう思っていたから、だから姉が東京の美術大学に進学した時は少し驚いた。驚きはしたけれど、一方で私も父が大好きだったから、姉がいなくなった後の父との二人暮らしが楽しみで、姉の進路についてはそんなに深くは考えていなかったと思う。
 もっとも私と父との二人暮らしは意外と退屈で、私はいつしか姉の帰省を心待ちにするようになっていたし、その日も姉が帰ってきてくれてホッとしたのを覚えている。それでも姉と父とが仲良くしていると言い難い感情が沸き起こり、だから勉強と称して逃げるように自室に引きこもったのだけれど。

 何時間経ったろうか。
 あれから父と姉は飲み続けているんだろうか。でも階下からは物音もせず、隣の姉の部屋にも誰かがいる気配はない。夜は澄んだように静かで、その静かすぎるゆえの、鼓膜を圧するような一種異様な気配を感じて私は階下へと降りた。
 階段の軋む音で心臓が跳ねる。自分の家なのに、知らない家の中を歩き回る奇妙な背徳感と緊張があった。ビール瓶が残ったままの居間の座卓に二人の姿はない。
 どこかで ぽちゃり、と水の音がした。
 私は異様な高揚を覚え、音を立てずにバスルームへと向かった。電気がついている。そっと、扉を開けた。

 湯船に沈んだ二体の生き物がいた。
 息をしているようには見えない。
 最初に感じたのは、ただ綺麗だと、それだけだった。
 私は吸い寄せられるように、湯船に近づく。彫刻のように裸で抱き合う二人を覗き見る。あぁ。あぁ。あぁ。
 その時父の目が開く。
 諦めたような、納得したような、小さな獣のような目が私と合った。
 ごぼり、
 と空気が彼の口から吐き出される。
 我に帰った。
 ぬるくなった湯の中に腕をつっこみ、二人を夢中で引っ張る。ごぼり、とまた空気が浮いてくる。最初に父が、次に姉が水面に上る。
 髪が藻のように顔に絡みついた姉が私を見る。
 昏い、とても昏い目だった。


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