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過去に感じ損ねた感情を、今

過去に自分で拾い上げられなかった、あえて拾い上げてこなかった足元に淀めいた感情を、ときどき拾い上げようとしていた。

何に触れても心の芯が動かず、何にも拾い上げられない、拾い上げられることのないと思っていた心を、感情をヨルシカのn-bunaさんの曲だけが、拾い上げてくれそうだと感じられた。

実際に拾い上げられることはできないのだが、拾い上げようとしていたかった、それが生きるということに近しかったから。

以来、自分の絶望ばかりだった「生」の捉え方は変わっていったと思う。もっとも、結果的に変わったなと感じてるだけかもしれないが。


ドハマリするとその人について調べ尽くすのだが、それ以外は自ら調べるということがない極端な性格だった。

ドハマリするアーティストなんて、中学生の頃のコブクロ以来だった。
アルバムをインディーズ時代から全て集め、どんなマイナーな曲もほぼ覚え、メディアを日々ひたすらにチェックしていた。



「n-bunaさんが生きるなら、生きてみようかな」

光など指すはずのない場所で光が何かの間違いで差し込んだ様だった。この世界のどこにも自分を見い出せなかったと同時に見出したくなかったとき、n-bunaさんの作品の中で、自分を見つけられた。

n-bunaさんの音楽は、過去に感じ損ねて、無かったことになっていた感情を掘り起こしてくれるものだった。

「やっと生きていたいと思える自分を見つけられた」

夜を離したくなくて夜が明けないことを祈りながら眠る日々に、初めて終わりがある世界線もあるかも知れないと思った。

この時点で、私にとってn-bunaさんの人生はもはや自分の人生とイコールのように感じていた。

顔を見せないn-bunaさんとは、物理的な繋がりではなく、限りなく完全に思想による繋がりが感じられた。

その繋がりに、どれだけ救われただろう。


『こんな自分に近い思想を持つ人がいるなら、まだ自分が生きていけそうな場所は世界にもしかしたらあるかもしれない』と、烏滸がましいと思いつつも、n-bunaさんの作品でそう思えた。



こんなに美しい作品に、人生に出逢えてよかった。

今度、n-bunaさんに手紙を書いて何か贈ろうと思う。


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