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親を選んで生まれてくる訳ない

「自分なんか、社会や他者に受け入れられることはないだろう」

と思い込んでいた。


ずっと頑なだったと思う。

まだ、頑張らないと、

頑張っていないと立ってなんていられない。


無条件で生きていていいなんて、

そんなことは感じられない。


だが一方で、

「無条件に生きていていい」と思えている人間が

世界に存在することも知っている。


そして、そういう人の大概は

家庭環境に恵まれていて

感情や自分の気持ちを周りにわかってもらえたり

受け入れられた体験の多いことから

自分自身を受け入れられる人が多く

失敗を過度に恐れず挑戦できるマインドになりやすく

人間としての"持ち合わせるべき"だと言われている

気がするような心の基盤がある人がばかりだった。

心の基盤とは、この世界で生きていることの安心感、だった。


家庭環境の良かった人の方が

明らかに自分の持つ苦しみを抱くことなく

人生が楽そうに見えることが物凄く嫌だった。


正直めちゃくちゃ劣等感はあるし、

心底羨ましい。

私も同じように親に愛されたかったし、

自殺未遂やいじめ・精神疾患とは無縁な、

姉弟とも関係性の良い家族が良かった。


そして、

息を吸うことのように当たり前に

「生きていたくない」ではなく

「生きていたい」と思いたかった。


自分が持っていないものを

当然のように持っている人を見ると、

いくら素敵だと思った人でも、友達だとしても

羨望や憧れと同時に嫉妬や嫌悪感・劣等感があった。


そういった人が存在していると知ると、

存在して欲しくなかった気持ちになる。


なぜなら、

世の中に自分のような環境の人間だけだったら、

こんな不快な思いや苦しみは抱かずに済むから。


比較によって

自分のことが客観的に浮き彫りにされてしまい

それ故苦しみが生まれ続けてきたから。


こういう思いを抱くことも、

駄目なことだと思っていた。

いつも自分を責めていた。

自分を「なんて嫌な人間なんだろう」と思った。

怒りや悲しみと共に、

周囲と反対の否定的な意見を持つ私を

人のことを思えない、優しくない、

最低な奴だと自分のことを思っていた。


だけど、

今はそれも自分だと言っていくことの方が

自分にとって善いよなと思う。

誰かの価値基準に合わせて

傷ついていないのに傷つかないフリをするなんて

もうやめよう。



答えがわかりすぎる苦しい社会


現代は、科学で何もかも明らかにされている。


それに、同時に

我々の脳も科学的思考に染まりすぎている。


自分や社会の抱える問題が

何が原因で、どんな傾向があり、

要因として挙げられるのか、わかりすぎる。


そして、

そうやって分析しようと

「分かろう」という姿勢が現代人のジレンマであり、

逃れられる事などない負の遺産のように感じる。


これらが、私たちを苦しめている。

色んなお寺や神社で出されている本によく書いてあることだった。

昔から人の苦しみの根源はあまり変わらないのだろう、と思う。


自分を客観視することは当たり前で

なぜ自分の問題が起きているのか、

分析し答えを導き出すことなど容易で、

自分や社会を責めるには十分すぎる

"理由"や背景やエビデンスがあった。


そして、

もう取り戻しのつかないことだと

知り得ることも可能だった。

世の中無情だなと心底思う。


「『無理だ。』と思えば無理だ。」という言葉もわかる。その通りのド正論だった。


だが、どう生きても足掻いても

「無理だ」としか思えない精神ができ上がる構造があり

科学的思考が優勢な社会であるが故に

身動きが取れないことも、紛れもなく現実だった。


この類の正論は、時に、

取り返しのつかない暴力になる。


刃物として心に突き刺さり、

一人の人間の人生を憂鬱にし

長く滞らせ、時に人生を終わらせることもある。






...


親を選んで生まれてくる訳ない


いくらあの人のようになりたいと願おうと

そんな生きやすい人にはなれないし、

環境や家族は手に入らない。


生まれる時に、


「家庭環境が悪かったことで精神的安心が薄く

苦しみから抜け出せるかわからない

もしくは苦しみが長く続く道」と


「苦しみがあっても家庭環境の良さによる精神的な安心が基盤にあり

抜け出せる見込みの高い道」が選べるなら、


もちろん後者を選ぶに決まってる。

誰が好き好んで前者なんて選ぶかよ。


生まれた環境や誰に生まれるかなんて選べない。


「神は乗り越える試練しか与えない。」とか

「人は皆、自分や親を選んで生まれてきた。」とか

そう思ったことは、微塵もない。

そんな神秘的なものとか、導きとか運命とか

そんなものは信じられない。


そんなことを口にする人に

怒りや嫌悪感や悔しさみたいなものを

いつも抱いていたと思う。

(もしくは、自分に言い聞かせるように

自分に言っているのだろうなとも思っていた。)

 

「生きることが楽そう、楽しそうでいいな」と妬んでいだ。

生きることが楽そうだなと思う人に対しては

いつも重さの違う持続的な痛みの格差を感じ、

共有できない、と知らされているようだった。


いつか、生きている内にそう思えたら

きっと幸せなのかも知れないが、

生きている内にそう思えるかわからない

スタート地点が低すぎた私には、今の所無理だ。



自分以外の人間になりたかった


ずっと自分以外の人間になりたかった。

人を模倣しようとするだけでなく

「自分でなくなりたい」と思っていた。

自分の存在ごと、

抱え続けてきた苦しみを手放してしまいたかった。




だけど、きっと私は私の課題がある。

そんな風に自分自身を卑下することに

繋がることは、もうやめにしたい。

私は私を選んだはずであるから

私は私でいたいと思いたい。



この環境で生きていたからこそ

できることに尽力したい。


雑音や不必要な情報は要らない。

自分を最優先にする。


生きている内に自分を愛せるかなんてわからないけど、

そんな風に生きられる人が一人でも増える世界になることを祈る。


 

 



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