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幼少期のわたし

四国の片田舎に、長女として生まれたわたし。


残念ながら、かわいい!と思わず声が出てしまうようなキラキラの写真が一枚もないのである。



わたしと妹

父方の祖母に似て、薄い顔とおちょぼ口が特徴。


小学生の頃、歴史の教科書に出てきた「平安美人」の絵があまりにも祖母と瓜二つで驚いた。

きっと私も将来はこんな顔になるんだろうと信じて疑わなかった。

私たちのような薄顔女子は、もし平安時代に生まれていたらきっと”絶世の美女”などと呼ばれたんだろうと思う。

あの教科書の平安美人は見つからなかった。


当時父は自営業、母は会社員で、父方の家族と同居していた。

幼稚園から帰ったら、小さいお店を営んでいた祖母と一緒に過ごす。


祖母自身も女三姉妹の長女で、しっかりしたとても綺麗好きな人だった。

生まれた時からとにかく聞き分けがよく、手のかからなかったわたしを彼女はとても気に入っていたらしい。

「こうしなさい」と言われれば、すべてに「うん」と答えていたわたしは、ただ単にこだわりがなく、(別にいいよ)だったのではないかと思う。

「絶対にこうしたい!」という、譲れないほどの明確な意思がなかったんだろう。


海外に出るにつれて自己主張がはっきりできるようになった私しか知らないパートナーにこの話をすると、一言「信じられない」と言われた。

私も、今の私しか知らなければ到底想像し難いわけで。


未就学の子どもにとって、家族というのはそれが人生の舞台でありすべてであり、他と比べる対象でもない、絶対的な唯一無二の世界なのだ。


この頃から、わたしは「ひとりあそび」が大得意だった。

放っておいても、歌ったり踊ったりピアノを弾いたり、ひとりおままごとをしてみたり。

「ひとりでいるからさみしい」という感情がまったくなかった。

それこそ、比べる世界がないから故に、かもしれないが。



祖母のことを思い出していると、彼女との一番古い記憶が蘇ってきた。


得意の「ひとりおままごと」をしていた時のこと。

おままごとでわたしは何かを料理し、カエルの絵柄のお皿にそれを乗せた。


「それ」というのは、私には見えているが物質的には何もないので透明で「実際にはなにもない」ので、カエルの絵柄のお皿、だけである。

でも、わたしは確かに料理したおいしい食べ物を乗せたのだ。


できたての料理を食べてもらいたいなと、店先にいた祖母に「おいしいごちそうができました〜!これたべて」と渡しに行った。


すると祖母は、

「うわっ!こんなカエル渡さないで気持ち悪い、食べれるわけがない」と怪訝な顔をし、突き返してきたのである。


とても、衝撃を受けた瞬間だった。

この感情が、喜怒哀楽のどれに分類されるのかも未だにわかっていない。

とにかく、衝撃を受けたのだ。

その後、どんな顔をするのが正解なのかわからず、わたしは何も言わずにそのカエルのお皿を見つめながら去った。


祖母は、動物や生き物を嫌う人だった。

わたしにとっては「作った料理」、だけど、祖母にとっては「ただのカエルのお皿」なんだ。


それからというもの、おままごとをする時に祖母へ声をかけるのをやめ、完全ひとりおままごとに徹した。


その頃のわたしは、幼稚園でいじめられっ子だった。

クラスでは、真向かいの家のEちゃんを中心に、なんとなく”派閥”なるものが既に存在していた。

幼稚園女子も、幼いながらに立派な社会が出来上がっているのだなと感心してしまう。


いじめられると言っても、殴る蹴るの暴行を加えられたわけではない。

ただ静かに、なにかと「はぶられる」のだ。


例えば、おままごとをする時は誰もがやりたくない役を与えられる(魔法使いのおばあさんに出会わないシンデレラのような報われない役)。

ぶらんこに乗っていたら、降りるように言われたり、もう乗ってはいけないと言われたり。

何かにつけて悪口を目の前で言われたりと、今思えばなかなかハードモードな幼稚園生活だったなと思う。

それでも一切言い返すことのなかった幼いわたしは、少しずつ少しずつ、ダメージを受け傷付いていたんだと思う。


そのEちゃんが毎朝「一緒に幼稚園に行こう」と誘いに来るのだが、それが死ぬほど嫌だった。

外面のいい彼女は、あたかもわたしと仲良しのように振る舞うのが大得意だったので、祖母は「Eちゃんが迎えに来てくれたよ〜」といつもニコニコしながらわたしを呼びに来る。

できることなら居留守を使いたい一心だが、家が目の前なのでどうにもならない。


普段感情を顕にしないわたしが、朝っぱらからEちゃんの顔を見ただけで「ぎゃぁぁぁーーーー」と泣き叫びながら部屋中を走り回って嫌悪感を表現していたらしい。


そしてわたしは、幼稚園児にして不登園児となった。

出席カードにシールがまったくない月もあった。


今思えば祖母が家にいたのでどうにかなっていたんだろうけれど、Eちゃんと登園して一緒に過ごすくらいなら、カエルのお皿で怪訝な顔をする祖母を選んだのだと思う。


それほど苦手なEちゃんを差し置いて、わたしにとって担任の幼稚園教諭がこの世で一番苦手な人間だった。

今の時代では考えられないが、狭い田舎のコミュニティの幼稚園はもうめちゃくちゃだった。

先生が、いじめっ子と手を取り合っているような世界。

あの軽いノリの教諭たちも周りもみんな無理で、ほんとうに無理で、ここから逃げ出したいと常に思っていた(だから逃げ出し不登園になったのだけれど)。


母は仕事に行く前にわたしをどうにか幼稚園へ連れて行こうとするのだが、泣き叫びながら抵抗することがあった。

母に引きずられるわたしを近所のおじさんが「あらあら」と見守ってくれる日もあった。

横目に映るおじさんに「行かなくていいよ」と、母を説得してほしくて仕方がなかった。



幼稚園に着いたら、すぐさまその教諭がわたしを拘束した。

「お母さん、早く行って!」

と、母を追い払う。


身動きが取れないまま、わたしは母の後ろ姿を見つめながら泣き叫び続けた。

そして、もう諦めた。


あの時の、自分が放つヒックヒックという嗚咽のリズムと、嫌いな教諭に腕を掴まれている痛みと、まだ朝だというのに既にこの上なく不快なあの夏の朝を未だに覚えている。


まぁ、わたしにとってあの幼稚園という場所は、現代で言うところの「波動」がまったく合わなかったんだろうと思う。



そんな日々を送っていたある日の夜のこと。


眠りにつこうとしていた時、隣で添い寝をしていた母が

「幼稚園でだれかに嫌なことされてるの?」

と尋ねてきた。


真っ暗で二人きりの静寂の中、わたしは自分の心臓がものすごく速く動いているのをたしかに感じていた。

不意打ちの質問に、まったく対応できなかった。


「ううん、何もされてないよ。」

平然を装って一言そう答えたのを、30年以上経った今でも覚えている。


わたしは、自分の事で人を困らせたり、気にかけさせたりするのが大の苦手だった。

いや、完全に過去形で書きたいのだけれど、今でも少しそういう性格である。


母は、静かにわたしの言葉に耳を傾けながら、

「嫌なことがあったら、なんでもお母さんに言ってね。」

と、優しい口調で言った。


気まずくて、はじめからちょっぴり背中を向けて聞いていたわたしは、暗闇に甘えて涙がこぼれそうになれた。

だけど瞬時に、グッとこらえて目を閉じた。


心配性の母をさらに心配させて申し訳ない気持ちと、気付いてくれた安心感と。

だけどやっぱり「ごめんね、気にしないで」が勝っていた。

母に思いっきりべったりと甘えたこともない子どもだったなと思う。



子ども時代の記憶というものは、嬉しかったことよりもはるかに「嫌だったこと、辛かったこと」の方が鮮明に残る。

まだまだ経験値の少ない子どもにとって、その時受けた衝撃がそのまま魂に刻まれるのだろうと思う。

そして、経験値が上がるにつれて出来ることがどんどん増えて、それらは少しずつ薄まっていく。

だが、完全に消えることはない。

目には見えない精神の、魂に刻まれたものはなかなか消えてはくれない。


実際、あの教諭との嫌な記憶がなければ、私が保育士を目指すことはなかっただろう(短大で学んだものの、結局ならなかったのだけれど)。

わたしのような思いをする子どもが、この世からいなくなってほしいと。


熱烈な「想い」は、強烈な体験から生まれることが多いと思う。

まもなく38歳になろうとしている今でも、これらはこんな風に文章に出来るくらい鮮明な記憶として存在している。

そしてきっとこれからも、このまま年齢を重ねていくんだろう。


ただ、途方もない恨み、などといった苦しみを永遠に抱えているわけではなく、この嫌な経験は今の私の一部になっているのだ。

これらの経験があったから、私は誰かを故意に傷つける言葉を選びたくないし、誰かを嫌な気持ちにさせる態度も取りたくない。

もともと子どもが好きなのもあるが、特に小さな子どもへの接し方には十分に気をつけている。

純粋無垢で美しい魂が、大人によって傷つけられるようなことがあってはならない。

この世は素晴らしい場所だ、と言い続けていたいと思う。


とりとめのない文章になったが、Little Natsumiが出て来たがっていたのでそのまま表現できて今はとてもしあわせな気持ちに満たされている。

いつも一緒に歳を重ねてくれて、ほんとうにありがとう。

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