特養で働きながら考えること
ご無沙汰のnote更新となりました。
amebloも時々書いているのですが
健康上の理由で長文はなかなか書けず
何度も下書きして小分けに書いて
更新しています。
半年前から特養(特別養護老人ホーム)の
厨房勤務を始め
店は身内に引き継ぎました。
私は看護師でも介護士でもないので
直接ご利用者様の身体に関わることはできませんが
配膳や巡回時のご様子などから
その人たちの現在の体調ももちろんのこと
どのような人生を歩んでこられたのかを
ふと想像したりします。
あくまで想像でしかないのですが
ご利用者様と会話するほんの一瞬のことです。
人生の最終地点にいる方々
若い時はさぞ働き者だっただろう
きっと可愛らしい可憐なお人だったのではないか
学校の先生だったかもしれないし
定年まで会社勤めをされた方かもしれない
そんなことを思い巡らし
簡単な会話を交わすこともあります。
年齢的に戦争を経験している人たちも
少なからずいらっしゃいます。
そしていつも忘れずに思っていることがあります。
よくぞここまで日本を成長させてくれた。
今の日本があるのは、この方達のおかげなのだ。
貧富の差もなく、戦争もなく
極端に飢えることもなく
子供達が皆学校にいけるこの国を作ったのは
この世代の人たちが頑張ったからなんだ。
そう思うとほんの少し涙が込み上げてきます。
もちろん今の世代の人たちも然りです。
何十年か後、
今の子供達、これから生まれてくる子供達が
大人になった時、
今の我々が年老いて介護が必要になった時
そう思ってくれる人が増えますようにと思います。
とは言いながらも、
あまり長く痛みを伴う治療や介護は
私自身受けたくないので、
ピンピンコロリ⭐︎を目指して
生活していきたいとも思っています(笑)
「生まれた時と死ぬ時は同じ状態になる」
身体的な衰えに関しては学校でも学びましたが
まさにそのとおりだな、と実感します。
生まれた時は自分で食事も排泄もできず
お乳を飲んでオムツを替えてもらい
やがて自分で少しずつ食べ
排泄もできるようになりますよね。
人が死ぬ時はその逆です。
自力で歩行が出来なくなり
食事が食べられなくなり
排泄もオムツが必要になります。
人によってその進行の速度は違います。
いわゆる「老化」「認知症」というものです。
以前、認知症のことを
「ボケ」「痴呆」と呼んでいましたが
これは脳の老化に対する蔑称であり
頭が悪くなることではなく
脳機能の衰えに伴い体の機能を少しずつ失っていく
遅かれ早かれ死に向かっていく
状態なのですね。
認知症になると
患者様にとって
「今まで出来ていたことが出来なくなった」
絶望や焦りを感じる人もいれば、
これまでの人生で感じた苦しさから解放され
多幸感に包まれる人もいます。
特養で働きご利用者様の様子を見ながら、
色んなことを思い巡らしますが、
ご本人の気持ちはご本人にしかわかりません。
何もわからなくなっている人もいるかもしれないし、
職員の前では気丈に振る舞い
「辛そうな顔を見せない」「気を遣わせない」
自制心のようなものが働き
明るく振る舞うように努力されている方も
いるかもしれません。
入退院で人数の増減は多少あるものの
私が入社した時より症状が進んでいる方もいます。
やがて「看取り」の段階に入ります。
長い間お疲れ様でしたと送り出し新しい人を迎える
その繰り返しです。
人の死に立ち会う
長く働くにつれて感覚が麻痺していくのではないか。
入所、世話、看取り、退所サイクルを
事務的に淡々とこなす。
それが仕事ではあるけれども
そこにどこまで自分の心を置いてもいいのか。
考えても答えは出ません。
今の超高齢社会において
健康寿命が短く平均寿命が長い現実を
考えずにはいられないのです。
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