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遺影を撮らせてほしい

ツイッターのタイムラインが「100日後に死ぬワニ」でもちきりになっている。

わたしは、何年前かの春に、後輩が原因不明の死を遂げたことを思い出していた。


当時わたしは大学生で、サークルの新歓の準備に追われていた。新歓メンバーのある女の子とずっと連絡がとれず困っていたところ、彼女の両親から不報があった。

原因不明、と言ったけれど、それはわたしたちが彼女の両親に死の理由を聞くタイミングがなく、葬儀でもその理由に触れられることがなかったから、わたしたちが知らないだけだ。

ただたぶん、交通事故とか、そういう理由でないのは確かだった。自分から命を経ったわけでも、きっと、なかったと思う。


写真サークルであるわたしたちに、遺影に使える写真がないか、と言う依頼があり、わたしが過去に撮った写真を渡すことにした。

仏花に囲まれた笑顔の彼女をみた瞬間、わたしは申し訳なさで心がいっぱいになった。

この写真がまさか彼女の遺影になるなんて、一体誰が想像しただろう。わたしなんかの写真で、ごめん。もっとあなたを愛している人に、撮ってもらうべきだったはず。わたしなんかの、なんの感情もない、平凡な写真じゃなくて。もっとたくさんの愛がこもった写真だったら良かったのに。

あなたが生きていた証を託すのは、わたしなんかが撮った写真でいいはずがないんだよ。


わたしは、彼女の死を通して決めたことがひとつだけある。わたしは、わたしの大切な人の遺影を撮ろう、ということ。

大切な人がたしかに生きていた証を。わたしがその人を愛しているという証を、遺影という形で、その人に伝えたい。あなたの死は、わたしが看取るからと。最期まで側にいるからと。

言葉にするよりも、どんな形よりも、それを越える愛はないと、わたしは考えている。



これは余談になるけれど。

葬儀の後、サークルのみんなはSNSで次々と哀悼の意を綴っていた。彼女と親しかった人も、そうでない人も。わたしは軽々しくそんなことを言う気持ちがわからなくて、そんな簡単に綺麗な思い出にすることもできなくて。嫌になってSNSを閉じたのを覚えている。

人は、誰かが亡くなるとその人について本当に勝手なことを語るよな。
「◯◯さんは厳しさの中にいつも優しさがあって、それがあの人らしさだった」みたいな。少なくともわたしは、自分のことをよく知らない人に、死んでまでそんなことを言われるのはごめんだな。


世界はそれを愛と呼ぶんだぜ