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いつかくる誰かの死について

「君が怖いものは何?」

イスラエル人の友達にこんな質問をされた。私はしばらく考えて、こう答えた。

「カエルかな」
「カエル??!それは意外な答えだね」
元々嫌いだったカエルが更に嫌いになった理由、ゴキブリは平気だけどカエルはだめな理由など他愛もない話をして私達は笑っていた。

昨日も全身スケルトンのカエルがお腹の中にカンガルーのような袋を持っていて、その中にネズミなどの丸ごと飲み込んだ餌を、まるで蛇のように、袋の中でただただ消化している姿を(見たくもないのに)隣で見る、という恐ろしい夢を見て目覚めは最悪だった。しばらくして、いやいや、そんなことよりもっと怖いものがあるではないか、と思い直したのだ。
 
それは「いつかくる誰かの死」だ。自分ではなくて、身近な人が死んでしまうこと。その時に襲われるだろう、悲しみや喪失感が私は怖くて怖くてたまらない。と言うのも、近親者や親しい人が亡くなるということを、私が最後に経験したのは父方の祖父が亡くなった小学1年生の時。24年も前になるからだ。

ここまで誰かの死に巡り合っていないのは、本当に幸せなことだと思う。父方の祖母も母方の祖父母共にまだまだ元気で、身内で闘病している人も居ない。友達を不慮の事故などで亡くしたこともない。棺に入る祖父の顔は未だに覚えているし、泣いたことも覚えているが、まだ小さかったので、誰かを失う悲しみを理解しきれていなかった。しかも、私は犬や猫などのペットを飼ったこともないので、大好きな動物の家族を亡くすということも経験したことがない。

今は誰かを失う悲しみというのが、どんなものなのか想像はできるようになっている。それが自分に与える大きなダメージと、それに伴う後悔の気持ちに苛まれる自分にも容易にイメージがつく。恐らく歳を重ねるにつれ、経験を積むにつれ、そのダメージは比例して大きくなっていくのだと思う。

たまに、もし誰々が死んだらと妄想する時がある。それはただ単に妄想であって、もちろん実感はない。そんなことで人を失くす喪失感の耐性を身につけようだなんて、愚かなことだ。

でも、ひとつだけ準備することが出来る。それは、大切な人に大好きだと、感謝していることを伝えること。出来るだけ多く、出来れば直接会って言えればベストだ。人間って生き物は、大体大切なことに気付くのが遅い。言えるうちに、会えるうちにきちんと伝えて、自分は愛されていたのだと、大切な人に感じてもらいたい。それでも、その日が来るのは怖くてたまらないけれど、少なくとも今の自分には、それしか出来ないと思う。別れは唐突にやってくるものだから。

そういえば、もうすぐ父の日か。明日はお父さんの好きなお酒を買いに行ったら、久しぶりに手紙でも書こうか。やっぱりまだ、直接言うのは恥ずかしいから。


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