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「謙虚」と「自信」のバランス

謙虚とは一体何なのか。

35歳にもなれば、自分の人生にそれなりに自信を持ちたい。人生を自分の足で歩めていること、仕事を持って自立していることに、胸を張りたい。

だけど、傲慢にはなりたくない。かといって、謙虚すぎるのも違う。自分がそれなりに頑張っているのが事実である以上、正しくそれを認めたい。

他人を見ていても、過剰な謙虚は「本心でそう思ってほめているのになぜ」と残念に思ってしまう。おまけに「もっと自分のことを認めればいいのに」なんて、余計なお世話も発動してしまう。

わたしがすてきだと思うのは、自信を持ちつつも、謙虚さを兼ね備えている人。じゃあそのバランスはどう取ればいいのか。長らく考えている中で、一つの結論が出た。

わたしが思う謙虚

わたしが思う謙虚とは、自分が恵まれていることを正しく認識すること。

例えば、仕事ですごい成果を出した場合。成果を出すには本人の努力が必要であり、頑張ったのは間違いない。そこは誇っていいし、変に「いえいえ私なんて全然大したものではないんですよ〜」なんて、自分を下げる必要はないと思う。

ただ、頑張れた背景には、何らかの要因があるのではなかろうか。良いチームに恵まれた、上司のサポートがあった、理解のあるお客さんに恵まれた……など、外的要因があるはず。

たとえ環境がクソだったとしても、クソみたいな環境で腐らずに頑張れる自分を作り上げた要因があるのではないか。家庭環境や学校生活の経験など、「外的要因に左右されずに頑張れる自分」に起因する過去の出来事があってこその成果かもしれない。

もっと言えば、「成果を出す努力ができる自分」として生きられているのも、これまでがあってのこと。

世の中には頑張り方や正しい努力の仕方がわからない人も、どうやらいるらしい。頑張るなんて当たり前に思ってしまうけど、そう思えること自体が恵まれているのかもしれない。

子どもの頃に勉強を否定されなかったこと。やりたいことがやれたこと。可能性を否定されなかったこと。本や音楽、映画に親しんだこと。受験を応援してもらえたこと。

「普通じゃん」と思ってしまうような、こういう環境があったこと自体が、実はだいぶ恵まれているのだと思う。

もちろん、世の中には過酷な環境の中で、反骨精神でのし上がった人もいる。そういう人は本当の意味で自分の実力が成功の全ての要因なのかもしれなくて、その場合は謙虚の余地はないのかもしれない。

でも、大抵の人は何かしらの恵まれた環境があった上での「今の活躍」があるのだと思う。

そういう「自分の恵まれた何か」を正しく理解することが謙虚であり、その上で自分の努力を認めることが、正しく自分に自信を持つということなのではなかろうか。

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