世界を見たくない時間が必要だ
コロナの緊急事態宣言が落ちついてここ最近は飲みに行くことが増えた。
案の定ベロベロに酔ってしまう。
「毎回毎回良くそんなに酔い潰れられるね」
と声をかけられて、不思議だねと返答するが
その答えは決まっている。
昔からそうだ。
お酒の味が好きとか、空間が好きというのは建前で
本来の目的は
「酔い潰れに行ってる」のだ。
私は多分、勘が鋭い。
これは日々を生きてる中で
意図せずに情報が入って来るということを意味している。
例えば仕事では「使ったことがないシステムでもザッと使えばなんとなく理解する」とか「街を歩いているだけでデザインストックがたまる」とか
便利な一面がある反面、
人の顔の筋肉の動かし方、いつもと違うトーン、普段つけない香水、以前と違ったルーティン、目と口元の差など自動的にストックして微妙な差異に気付いてしまったり妄想してしまったりする。この情報が思考を永遠にぐるぐるさせていつまでも頭の中はいっぱいいっぱいだ。
お酒を飲むということは
自分の中で唯一の「無思考の時間」と言ってもいいのかもしれない。
感覚が鈍って、ふわふわして
思考せずに楽しめる。
逆によく酔えずにこの社会を生きられるな、とさえ思ってしまう。
お酒に酔ってる時間が感覚が鈍ってようやくほっとつける。
そんな人間だっているのだ。
この酔い潰れるというのは、なかなか心地よい。
勝手に理想化されたり期待されたりすることもなくなるし、
人に傷つけられることも滅法減る。
性格上極端と極端を併せ持っているので、どっちが本当?とか演技だとか言われることもあるのだが、極端と極端をフラフラ生きてる人だと思って堪忍していただきたい。
微細な心を見て表現をする時もあれば
世界の何一つ見たくない時だってあるのだから。
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