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Contradiction

1週間ほど投稿が空いてしまった。私には継続という二文字はどうも苦手みたいだ。多分締め切りとかがあれば否応にも向き合うだろうが。という言い訳を言ってみる。

私は92歳の祖母の介護をすることを生活の一部としている。この投稿をしていない期間、祖母は2回目のショートステイへ行く機会があった。前回のお見送り時は同席していないため、私にとっては実質初めての出来事。当日祖母を車椅子へ移乗し、迎えのバスを見送った後、自宅へ戻り空っぽのベットが視界へ入るとなんとも表現しにくい感情となった。祖母と笑顔で手を振りネガティブな気持ちはないはずなのに私の心はそれが多くを占めていた。

帰宅しゆっくりコーヒーを飲みながら、ある一つの結論に至った。
頭では理解しているものと視覚からの情報が異なり脳がバグを起こしたのではないかと。頭では祖母は亡くなっていないし存在していることを理解している。しかし視覚は空っぽのベットに祖母は存在していない=生きていない。という思考回路を作り出してしまった。私が祖母の介護を開始してからベットに横になった祖母がいない状況は初めてであったため、より一層今回の思考を作り出してしまった可能性がある。

私の癖で起こった出来事の本質や意味付けを考えることがあり、今回もそれをした。今後近いうちに祖母は心臓や呼吸など生きていると身体的所見で証明できる機能が止まる。それを人類は死と定義する。昨日まで存在していた、当たり前であった状況が一変するのだ。それを事前に頭では理解しているのに、いざその状況になったら悲しみ嘆く。
今回の出来事はその予行練習のように思えた。心と身体の乖離。本当に祖母が亡くなった時、頭ではわかっているものの心が追いつかないという状況になることを前もって教えてくれているような感じがした。

だからと言って多分今回のことは役には立たない。でもこの思考を持っているのでは回復にだいぶ差があるように思う。

「死にゆく人を近くで感じることは生きてゆくことを考える」
私が祖母を介護していて一番感じることだ。
これも矛盾があると思うが私は今、祖母によって生かされている。


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