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奇跡と希望

引き返せればいいけれど、時間は巻き戻せない。
それをセンチメンタルに語るつもりはないし、その立場にはないけれど、戻れないからこそ後からじわりじわりと侵食されることをわたしは知っている。

わたしが生を受ける前からわたしの存在を知ってくれていた彼は、希少がん闘病からの脳出血でこの世を去った。季節のあれこれや折々の節目に会うような、でもずっと続くような間柄だった。
長い闘病をよく支えた素敵な奥さまと、まだ幼い家族を残しての旅立ちだった。

わたしは他人と親密な距離にいることが苦手なたちだ。それは赤の他人に限られるものでもなく、ずっと知っている筈の相手にもなかなか上手く近付けない。
近付くのが全く嫌というわけではないのだ。ただそのスキルに乏しく、表面を越えた場所に踏み出せない。いつだってどうにも立ち尽くしてしまう。

周りとしてのわたしは、希望=wishはずっと片隅にあって、でも現実も見えていた。hopeではなく、wishの方だ。勿論、奇跡=miracleではなく。厳しい状況なのは常々聞いていたし、会って姿を見ればその現実はどうしようもなくあきらかだった。

でも、それをどう受け止めるかは人によっても、立場によっても違う。
周りとしてのそのほかの人々は奇跡に縋るようで、それを懸命に話すのを見ることがわたしには辛かった。

却って追い詰めてはいないだろうかと。


奇跡という言葉は、時にreverieにも──語弊を恐れずに言うならばcurseにも似ている気がする。
奇跡は起こり難いからこそ奇跡足り得る。奇跡が何処にもありふれていたなら、それは奇跡ではなく日常に過ぎない。
それをわかっていながら、クリシェのように「きっと奇跡が起こりますよ」と言うこと。優しい慰めの言葉であろうが、それは一方で「奇跡でも起こらないと」の裏返しでもある。
ごく僅かな奇跡のために遮二無二突き進む、もしくはそれを余儀なくされることで、来るべき日の前にしたいことが出来なくなる可能性だってあるかもしれない。


奇跡に縋りたい気持ちは深い愛情からだろうし、そんなことを思ってしまうわたしは薄っぺらいのだろうとも考えたりもした。冷静である分だけ、他の人々よりつめたいのだろうと。
実際わたしには何ひとつ出来なかった。やがてくる辛さから逃げ出したのだとも思った。

彼が「奇跡」を信じて代替医療に足を踏み入れていたこと、そのために標準治療の開始が遅れたことを知ったのは、少し後のことになる。
最初から標準治療だったなら・・・・・・どうしてもifは頭を過ってしまう。
でもそれを一番悩んだのはきっと本人だ。今さらわたしが外から何を考えたところで、時間は一秒たりとも戻らない。


自分ががんになったことで、初期ではあれど色々と考えてしまう。気持ちの強さとは何か、それを送り受け取ることとは──など色々と。


今、奇跡は有り得ないということについて語られている。
もしもプロが語るとき、奇跡ではなく──それを面と向かって全面否定することでもなく、希望の話をしてほしい。奇跡への信奉が悪意の第三者からもたらされたものであったとしたら、それへの怒りを患者にぶつけないでほしい。
奇跡はなかなかそこに来てもくれないくせに、人を翻弄する。でも希望は違う。希望には決まったゴールを設定しなくてもよいのだから。たとえベクトルの先が完治ではなくとも、より良い一日一日を過ごすために。

希望を絶たれたら、甘い奇跡の夢に縋ろうとして道をあやまってしまう人があるだろう。
奇跡という言葉をいたずらに適用するのは、やめませんか。でもゆったりとした希望だけは、どうか残していただけないだろうか。明らかに間違った、暴走するような願い事でないのなら、それはまたひとつの在り方だと思うのだ。

受容しながら、一方で希望は持ち続けること。希望とは、「hope」も「wish」もその細かなニュアンスまで一括りにされた上で非難されるようなものだろうか。希望は無謀や夢想といつも同義だろうか。そもそも受容はいつも完全で、そして迅速でなければならないのだろうか。
そして一例に端を発した過剰な言葉狩りは、その他大勢の人心まで狩りはしないだろうか。
百も承知の上ではあろうが、放たれた言葉は勝手に漂っていく。
わたしはその及ぼすものを、強く危惧している。

日本語は化学式ではなく曖昧なものだから、辞書ごとに説明だってかわる。奇跡という言葉を使いながら、そこに別のものを見ている人だっているかもしれない。
目に見えている色が誰の目にも全く同じではないように、「あなた」と「わたし」そして「誰か」の使う言葉の色合いも、そのバックグラウンドも、一つたりとて同じではないのだから。


プロがメシアよろしく奇跡を見せようとすることの是非と、個人的な内心の自由はまた別だ。

患者の家族だって心象風景の中を生きている。わたしは言わば兼業患者で、がんサバイバーでも、「複数の病気」「複数の患者」の家族でもある。だから、どちらにも目を向ける。どうか糾弾や安易な定義はしないでほしい。
わたしが見せているのがサバイバーというわたしの一面でしかないように、声高には叫ばずとも何かを信じることで辛うじて日々をやり過ごす人だっているだろう。

万人がそんなに強くなどない。そもそも人の心とは、ひとつの解で済むような数学的なものではないのではないか。もっと複雑な、リアルとストーリーが絡み合うような底知れぬ混沌が人にはあると、わたしは思っている。
混沌の内訳だって、人によって違う。それぞれの混沌を照らす微かな光の名前が、時として、わたしの使う日本語においては希望なのだろう、とも。

 

 

 
(誤解を招きそうな表現について、加筆修正しました。)

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」