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beside of (またはシュレーディンガーのわたしたち)

先生、質問があるのですが。

指の先にちょっとした戸惑いを漂わせながら、すうっと手を挙げる。
教室の片隅で幾度となく繰り返される光景が、どうして遠くなったのだろう?

それは、いつから?

こと医療という話の前で、素人であるところの患者は
「先生、質問があるのですが。」
と言い出しにくい。そんな話をよく耳にする。
それどころか、病院そのものに行きたくない、医者は嫌い──など。

何でも質問してしまう、好奇心が皮を纏ったようなわたしにすれば、それは驚きだった。

「えっ、聞かないんですか?」
「だって、ほら、とっつきにくいし。怖いし。嗤われたら嫌だし」

この断絶って、どこからくるのだろう。

 ◇ ◇ ◇

病院に行くとき、とはどんな時?

風邪っぽい、肩が痛い、それとも足を捻った?
その「症状」はなんとなくでも、はっきりでも、見えている。でも、「それが実のところ何なのか」は見えていない。

まあ○○かな、なんて思うのは容易い。でもそれが本当に○○なのか、違うのか?

当たり前のことだけれど、病院に行くとそれが可視化される。診察の中でくっきりと見えてしまう。
見えた時から、「○○の患者」になる。

病気とその人を隔てていた一枚の帳が、なくなる。
シュレーディンガーの「とある人」、50%の患者であったその人が、「患者」になる。

 ◇ ◇ ◇

何を当たり前のことを、というのは簡単だ。
だが、患者のために帳を取り払う医師という存在は、患者から見たら帳の向こう、病気側に立っているのではないか?

つまりだ。自己は帳のこちら側、まだ診断のつかない──その意味では「まだ患者とは確定していない自己」として日常に在る。
疲れたのかなあ、寝れば治るかな、そんなことを思うのも自由だ。

ただその帳の向こう側を見たその時に、そんな自由は失われる。
それを見せるのが医師の仕事だ。
だから医師は「そちら側」、つまり非日常たる病気側に見えてしまうのではないのか?
忌避するべきものである病気のイメージとあまりに不可分過ぎて、怖くて嫌な印象がこびりついているのではないか?

そんなことを感じた経験がなかったからこそ、わたしはその「病院=怖い」という感情について他者に言われるまで考えることもなかったのではないか。

──その上本当に嗤われたりしたら、これはもう拭い去れないじゃないか。

 ◇ ◇ ◇

トンデモはそのあたり、とことん「ヤサシイ」。
何せ、常に甘い言葉だけをくれる。それは病気ではないんだ、生活改善でたちまち治るんだ、そんな言葉で美しく現実をコーティングする。

でもそれは、わたしたちのためではない。
診てもいない誰かにそんな言葉を放てるのは、やさしさなんかじゃないんだ。

https://twitter.com/SatoruO/status/1180051268015972354?s=19

やさしい医療発信が動き出している。
いや、正確に言おう。今までもそれはあった。
実際にこの目で見てきたのだから、間違いない。わたしには断言できる。

今までとこれからが違う、と希望を感じるのは、伝え方の戦略だ。

限られた地域で限られた経済的利益と結びつきながらごく局所的に行われていたそれを、広く世間に、効果的に伝えていく試み。

帳をあけるとき、その帳の向こうを知ってはいるけれど、こちら側に立っているんだ。ひとりじゃない。目の前の主治医は君の味方だ。そう強く伝えるための確かなプロトコル。
病院と患者の間にある深い谷に、橋を架ける試み。

わたしはその行く先を、じっと見ている。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」