food,cook,midnight drive
昨夜、素敵な楽曲が次々とリリースされて、9月のはじまりは最高に気分のいい朝のはずだった。
朝の忙しい時間帯、さらに通勤中の電話。LINEでもない。うっすら感じる、よろしくないほうの非日常。
身内ががんになった。
さらに、幼少期から可愛がってくださっていたおじさまが、重篤な状態。
ぽーんと突き落とされたような、足元が急に崩れたような。
そうか。そうだったな。非日常はいつだって、簡単に日常にすり替わる。
それでも何食わぬ顔をして──多分そうできていたと思うが、仕事はこなした。帰り道の車内、久々に音楽を聴かなかった。曲と思いが紐付いたなら、嫌いになってしまいそうな気がしたのだ。
粛々と夕食をつくり、そうしながら事前申し込みをしていたミシマ社・土井善晴先生のYouTube MS Liveを見る。
「食べることは生きることなんですよ。」
深く頷きながら、心は軌跡を追っていた。病室で、自力での経口摂取もままならなくなってしまったというその方は、ほんの数ヶ月前にはスーパーで瑞々しい野菜を見つめていた。見つめていたのに。
「あれ、いま買い物?お久し振りだね!」
そう笑いかける声には張りも十二分にあって、ああ相変わらずいい響きだなあと思っていたのに。
生きること。
土井先生はどんどんつくる。カッティングボードも使わず、ペティナイフで野菜をザクザク切っては鍋へと滑り込ませていく。色とりどりの具材は、あっという間に味噌汁へと変わる。
「一汁一菜でいい」「具だくさんのお味噌汁は、それだけで立派なおかず」「レシピにとらわれなくていい」「美味しく作ろうと思うからストレスになる、お味噌に任せればいい」「出汁は具材から出る」「かたちを揃えるのは懐石の作法、色々あっていい」「豆腐を切らなくても崩せばいい」「味付けは食べる人がすればいい、味が足りないなら文句言わず足したらいい」「炊飯器の上等なものを買うより、洗い米にしてきれいな水で水加減するという昔ながらのことを守っておけば、たいてい美味しくなる」
美味しさはご褒美でついてくる。
お椀の中にあったのは、自由だった。固定観念をペティナイフでざく切りにして、くびきを取り払って出来たそれは、美味しい革命だった。何を放り込んでも、かたちがバラバラでも、生きるための食がそこにある。根源であり、基本。頭で散々こねくり回した「べき論」ではない、ちゃんと力の出るもの。
なるほど、エプロンのゲバラがしっくりくるわけだ。だって、これは革命なのだから。
「しんどくって寝てても起き上がる時って、お腹が減ってるでしょ。それは生きたいってことです。」
そうか。そうだな。誰がどのような状況にあろうと、それで凹もうとも。わたしの身体には明確な意思があるのだ。
終始心理的ハードルを取り除く語りがあまりに素晴らしく、ちょっと涙ぐんだり笑ったりした。発想の転換と本質へのアプローチを楽しくやわらかく。完全に哲学で心理学で、ある種のカウンセリングだった。痺れた。
動画が終わる頃には、すっかりお腹がすいていた。具だくさんのお味噌汁を食べたら、心に力が戻ってきた。単純だな、でもきっとそういうものなのだろう。
そのままYouTubeでMichael Kanekoさんのライブ動画とインスタライブ、sancribのMVを見た。もう、「いま見るべきじゃないのかも」とは思わなかった。
これもまた、生きることだ。
わたしがべっこべこに凹んだところで現実は何ひとつ変わりはしないし、物事が良くなるわけでも時間が巻き戻るわけでもない。
いつだって当事者がいちばんつらい。でも、周囲だって──わたしだって、感じ考えつらくもなる。その中でいま出来ることを為し、してはいけないことをしないだけ、しかない。
凹む日があれば盛り上がる日もかならず来るかといえば、現実はそうじゃない。それでも、先走ってすべてを決めつけるほどナイーブでもいられない。食べて、歩くのだ。
真夜中に車を走らせた。まばらに走る車のそれぞれに、その日の重さがあるだろう。いまはビートが効いた曲がいい。少しだけ重りを跳ね上げるような何かがいい。
初秋のぬるい風、感情的になっておいおいと泣けない面倒なわたし、可愛くない自分を俯瞰する可愛くなさ加減に気付いて苦笑するつめたさ。全ては深い夜の中。
明日は、何を食べようか。
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」