見出し画像

天才のバリアフリー

 私には10才の甥っ子が一人います。彼はサッカーやバスケットボール、ドッヂボールなど、運動が大好きで、いつも身軽に動いています。以前、一緒にアスレチックに行ったときも、進むスピードが速く、どんどんと先へと挑んで行き、しまいには見失うほど先に行ってしまいました。彼のお母さんからは「身も心も身軽」と言われています。

 そんな甥っ子に誘われ、ある日、一緒に区民プールに行くことになりました。兄が運転する車に一緒に乗り、プールに行く途中、兄が「財布にお金がない」と言うので、行く道の途中、ATMがあった路上に、一度止まりました。兄が運転席から車を出て、スタスタと歩いて行きました。すると、後部座席に座っていた甥っ子も、咄嗟に車を降り、歩道と車道の間にあるガードレールをスッと飛び越え、兄を追いかけてそのATMまで走って行きました。そして二人は、まもなく車に戻って来ました。甥っ子が再び車に乗るときに、
「オレ、ATMまでパパと行って、戻って来れた、天才!」
と言って、車に乗りました。私は、「天才?」と一瞬思い、どんな天才だろうと思いつつ、
「うん、そうだね」
といったんその言葉をそのまま受け取りました。ATMがある歩道と車道の間にガードレールがあり、そのガードレールを身軽に跨いで飛び越え、走って素早く戻って来た甥っ子。このことを「天才」と自分で言っているのだろうか、と少し考えていました。

 なぜこれが天才なんだろう、と私のように思う人もいるかもしれませんが、この甥っ子の素早い判断と行動は簡単にできることではないような気がしてきました。彼は前にも一緒にクイズをしていたときに、自分のことを「オレ、天才!」と言っていました。そのことも思い出し、今日のあの行動の直後、私も彼のことを「あ、天才だ」と思いました。「天才」とは生まれつき備わった優れた才能のことを言うそうです。彼は自分のことを「天才」とすぐ言える才能があるのだと気が付いたのです。彼が自分のことを「天才」と言えるということは、自分のことを「天才だ」と素早く思える才能なんだと思いました。そのように捉えてみると、確かに彼は身も心も身軽な「天才」だと思いました。

 私も彼のように日々の小さなできごとにも、「天才」だと思っていいかもしれないと学びました。たとえば、忙しい朝の短時間に出かける前までのタイムリミットがある中、お弁当を作ることだって「天才」の仕事だと思ったのです。限られた時間内に、お弁当箱という限られたスペースに上手におかずを詰めることも誰かにとっては難しいことなのかもしれません。それを難なく作ることができるということも「天才」ではないか、と思ったのです。もしかしたら、もっと天才のハードルを低くしたら、自分では気が付いていないことも実は誰かから見たら「天才」に思われているのかもしれません。そのように思うと、隠れ天才が、世の中にはたくさんいるのだろうなと思いました。天才のハードルをもっと低くして、天才のバリアフリー化をしたら、みんなが「天才」と思える社会が広がっていきそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?