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ゆらいでいたい

頭の中でピタっと固定されるものはほとんどない。いつも曖昧でふわふわゆらゆらしている。ついでにぼーっとしている。

言葉を口から出す時、または出した直後、今の感情は本当にこの言葉で合っているのかと考え、だいたいうまくフィットしていない。そんなことを考えるからいけないのか、ただ単に語彙力が少なすぎるからそうなるのかわからないけど、感情や気持ちを言葉に合わせてる感じだ。

使う言葉も曖昧で「かもしれない」「きっと」「たぶん」このあたりを頻繁に使ってしまう。他人はもちろん自分のこともなるべく言葉で縛って決めつけたくない。文章の場合はあえてスパッと曖昧を切り落とす場合が多いけど。というか言い切ることでそう思い込みたいのかもしれない。(あ、もうすでに保険かけてる)思考や記憶はほとんどが映像として頭の中で優しく泳いでいて、カメラでいうと絞り全開のF値1.4くらいなイメージの中、メインのピントは小さくズレている。

昔から女子によくあるグループがあまり好きではなかった。ここに居なさいと縛りつけられているような感覚になって少し息苦しくなる。きっちり予定をたてるのも苦手。どこかの会社に属するというのも同じような息苦しさがある。できれば何にも属していたくない。ずっと私は私でありたくて、〇〇の私になりたくない。好きな時にどこにでも飛んでいけるような、身軽さを常に感じていたい。
カテゴリ分けすることはとても便利だし、人間が生きる上で必要なこと。目の前に現れたものが「敵」か「味方」か、まずその判別をしなければ自分は死んでしまうかもしれない。人は自分が知っているカテゴリにはない「なにか」が現れると不安を覚えやすいらしく、無理矢理にでも自分の知っているカテゴリに当てはめるか排除しようとする。とりあえず自分の知っているものに部類分けしておけばなんとなく理解できた気になるし、わからないものについて考えなくて済むからきっと楽なのだろう。

区別するということは差別を生み出す原因にもなり、争いが起きやすくなる。カテゴリというかそもそも「言葉」が同時に2つの概念や観念を生み出す。言葉で生活する場合どうしてもいろんなことが分かれてしまう。「美しい」と認めるから「醜い」という観念が生まれる。そうであると認めた瞬間にそうじゃない世界が生まれてしまう。言葉自体がとても強い力を持っているように見える。


ここ最近HSPとかADHDとか発達障害、ジェンダーなどこの辺の言葉が目立って見えるけど、私はこの目立って見える現象に少し違和感を感じている。私自身も自分のことは結構繊細だと思っていてHSPの部類に入ると思うし多少発達障害も持ってると思う。でも私はそういう自分の特徴をあえて口にしたいとは思わない。しかし本屋に行けば「繊細さんがなんとかかんとか」「大人の発達障害」とかいったタイトルをよく目にするしメディアでも特集で取り上げられたりしている。そういう環境のせいもあり、私はADHDなんです発達障害なんですと胸を張って言う人が増えたと思う。もちろん胸を張って言っていいことだし、特性や障害の存在をみんなが知っておくのはとても大事なこと。だけど、だけど何かが引っかかる。胸を張って言う人たちの中には「発達障害という診断を欲しがっている人」が混じっているように見える。自分が片付けられないことやコミュニケーションが苦手なのは障害のせいではないのか。と障害のラベルを医者に貼ってもらって安心したがってるように見える。
人間は基本的にそれぞれが個性的でみんな変だと思う。違って当たり前なんだし全部その人その人の個性という認識でいいのではないかと思ってしまう。多動なら「余計に動いてしまうんだね」吃音なら「言葉がどもってしまうんだね」とそれぞれをそういう存在として「その人自身」を認め受け入れる。それだけでは駄目なのかなと思ってしまう。

航空会社が「レディース・アンド・ジェントルメン」をジェンダーニュートラルのために廃止したが、なんだろうここでも何か違和感を感じる。ジェンダーレスな世界にするのは良いことだし大賛成だけど、なんでもかんでもすぐ性差別だとか指摘しまくる現象に少し首をかしげてしまう。多様性多様性と口にしまくることで本当の多様性から遠のいてる気がする。
みんなが何も意識しなくなる世界が理想なのではないかと思うんだけど。そんなにすべてを部類分けしなきゃいけないのか。言葉が先行して不思議な世界を作り上げてるように感じてしまう。


やっぱりいつも言いたいことが散らかってくる。毎回文章を書いて思うけど、言葉にすればするほどよくわからなくなってくる。わかってるつもりになってるけど実際多分わかってない。腑に落ちた感覚がまるで得られない。あ、もしかして人間は理解した気になりたいだけなのか。本当に理解することは不可能だと体感ではわかっているけど、理解したことにしておかないと話が永遠に終わらないからそういうことにしてるのか。やっぱり言葉においても本質部分は水のような液体で個体(言語)として掴めないものなのかもしれない。いや…何か違うか。

とりあえず、何かがフィットしないと感じながら言葉にしているのは、違ったままのものを仕方なく受け入れてるという感覚になってしまうのだけど、この行き場のない感情はどう表現すればいいのだろう。私が放つ周波数にでも託しておけばいいのだろうか。そもそも何かが違うと違和感を感じた私の感情は本当に違うのだろうか。
言葉があるから思考できるのでは?
幻想?勘違い?違和感という単語があるからそう思い込んでるだけ?
はて。全然わからない。
言葉って一体なんなんだろう。

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