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古代ローマ時代だけではない、ローマを守ろうとしたサン・パオロ門

古代ローマ時代の西暦271年から275年にアウレリアヌス帝によって造られたローマのアウレリアヌス城壁。城門を含め、現在でもかなりの部分が残っています。そして、南西に位置する堂々としたサン・パオロ門は、中でも保存状態のよい門の一つです。

このサン・パオロ門から、オスティエンセ街道が始まり、港町オスティアを結んでいたので、古代ローマ時代は、オスティエンセ門と呼ばれていました。

古代ローマ時代はオスティエンセ門と呼ばれていたサン・パオロ門

港と首都ローマを結ぶオスティエンセ街道には多くの交通量がありました。そのため、城壁に入る手前のカイウス・ケスティウスのピラミッドにて、街道を右と左に二股に分けることにより、交通量を分散していました。右の道はアヴェンティーノの丘の頂上へ、左の道はそのままテヴェレ川沿岸の穀物倉庫の方へ伸びていました。首都ローマの食糧は、エジプトから運ばれてくる小麦に頼っていたからです。しかしながら、しばらくするとオスティアよりもポルトゥエンセ街道で結ばれたフィウミチーノ港の重要性が増し、左側の道の門は閉ざされました。それでも、1888年まで左の門も存在していたのですが、今残るのは、現在サン・パオロ門と呼ばれる右のオスティエンセ門だけになりました。

ガイウス・ケスティウスのピラミッドからみたサン・パオロ門

少なくとも6世紀頃より、サン・パオロ門と呼ばれるようになったのは、港町オスティアの重要性が薄れた後、ローマ市民がこの門を出て向かう先は、キリスト教の中でも重要な聖人パウロに捧げられたサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂だったからでした。

市外側からみた門。二重門構造になっている。市内側には二つのアーチがある。
建設時には外側にも二つのアーチがあったが
ホノリウス帝により外側の開口部は一つにされ、タラバ―チンの壁で塞がれた。

この門は、1943年ドイツ軍のローマ占領を回避しようとするイタリア軍の最後の試みの舞台となったことでも有名です。

第二次世界大戦中、同盟国であったドイツにイタリアが占領されたのには以下のような背景があります。

1943年初頭、イタリアは北アフリカやシチリア島などで連合軍に敗北し、戦況が悪化していました。そのため、国内の不満が高まり、ファシスト政権に対する支持が低下していました。そして、7月25日、イタリア王ヴィット―リオ・エマヌエーレ3世によって、ムッソリーニは首相の座から解任され、逮捕されたのです。

その後、ピエトロ・バドリオ将軍を首相とする新政権は、戦争からの脱出を模索、連合国とひそかに休戦交渉を進めました。そして、9月3日秘密休戦協定が結ばれ、ローマは無防備地域とされました。そんな中、9月8日、連合軍総司令官ドワイト・アイゼンハワーがイタリア側の了承なしにイタリアの無条件降伏を発表したのです。

イタリアの離反を予測していたドイツは、イタリアへの進駐計画を既に準備していました。そして、休戦発表と同時にドイツ軍はイタリア全土を占領し始め、首都ローマにも迫りました。

その時、なんと、国王一家とバドリオ政権の閣僚らは、ローマ市民を見捨て、南部のブリンディジに逃走したのです。

ローマ防衛のための組織的計画がない中、首尾一貫した命令や人脈を欠いたイタリア軍は、自ら武器を手に取った市民とともに、ドイツ軍と戦いました。

そして、オスティエンセ街道を北上してくるドイツ軍に対して最後の抵抗が行われたのが、1943年9月10日、ここサン・パオロ門だったのです。この戦いで、軍人414人、民間人183人の計597人が犠牲になりました。そして、首都ローマは、翌年の6月4日に連合軍により解放されるまで、ドイツによって占領されたのです。(イタリア全土が解放されるのは、さらに翌年の1945年4月25日です。)

1943年サン・パオロ門における手榴弾兵
Di anonimo - Trenta anni di vita italiana di Pietro Caporilli, Pubblico dominio, https://it.wikipedia.org/w/index.php?curid=3818369

ドイツ占領下にローマでは、1581人のカラビニエリや1023人のユダヤ人が逮捕、強制送還されただけでなく、抵抗し続けたイタリア人によって殺害された33人のドイツ軍人の復讐として335人のイタリア人捕虜等が殺害されるなど、たくさんの犠牲者をだしました。

現在、ローマは観光客で溢れています。その波のように訪れる観光客のどれぐらいの人が、80年程前はこの地でイタリア人とドイツ人が戦っていたことを考えるでしょうか。

そして、今、ウクライナやパレスチナで行われている戦争を他人事ではなく、私達の今の行動によっては、自分達の国も巻き込まれてしまうと考えているのでしょうか。

現在の政治家を選んでいるのは、私達の責任です。戦争を煽る国の言いなりになり、防衛費をあげ、その正当性を認めるマスメディアの情報だけを頼りにしていては、日本は第2のウクライナのようになってしまいます。

戦争が起こらないようするのは、防衛費をあげることではなく、まずは外交です。そして、私達は、政治に無関心になるのではなく、少しでも今の平和が長続きするよう、国民の声を上げ続けることが重要だと思います。

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