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まるでカッパドキア!イタリアに残るエトルリア時代のネクロポリス

古代ローマ時代にVia Clodia(クロディア街道)と呼ばれた道がありました。ローマから北に伸びるこの街道は、カッシア街道と途中まで行程を共にし、ローマから9マイルのところでカッシア街道から西にそれ、かつてのエトルリアの領域に入り込みトスカーナのサトゥルニアまでを結んでいました。

この街道は、もともとエトルリア人が商業目的のためにつくった道の上につくられたと考えられています。地中海や東方との交易を盛んに行ない、裕福であったエトルリアの各都市は、12都市連盟で結ばれていました。しかし、宗教、言語、伝統を共有するために結ばれた連盟であって、行政や軍事を目的とした連盟ではありませんでした。そのため、エトルリアの都市は、当時勢力を伸ばしていたローマに次々と征服されていきます。ローマに一番近かったウェイイは紀元前396年、タルクィニアは紀元前281年、ヴゥルチ紀元前280年、カエーレ(現チェルヴェーテリ)紀元前273年、そして一番最後にローマに征服されたエトルリアの都市ヴォルシニー(現オルヴィエート)は紀元前265年。

エトルリアを決定的に征服したローマは、紀元前225年にエトルリアの道をクロディア街道として4mに拡幅し、石畳で舗装しました。しかし、ローマ街道として整備されたあとも、クロディア街道は、有名なフラミニア街道やアウレリア街道が軍隊の移動を目的にした長距離街道だったのとは異なり、主に商業目的に使われた短距離の街道でした。

このようにしてできたクロディア街道の考古学調査を行っていた1988年初頭、土の下から人間の手が加えられた凝灰岩の一部が発見されます。そこから行われた大規模な考古学調査。姿を現したのは、古代のネクロポリスでした。

発見された場所は、現在Blera(ブレーラ)と呼ばれる小さな町の近く(前掲の地図参照してください)。クロディア街道のちょうど中間地点で、同街道が小川を超えるためにつくられたPonte della Rocca(城塞の橋)のすぐそばにあります。

Ponte della Rocca(城塞の橋)
紀元前3世紀から2世紀に凝灰岩のブロックを使ってつくられた

カッパドキアを思い起こさせる岩壁につくられた洞窟のネクロポリス。紀元前7~4世紀につくられました。上部の方が時代は古く、下部に行くほど新しいお墓です。ローマ時代には、おそらく上記の城塞の橋をつくるための建築資材として一部とりこわされたり、火葬の場としても使われていました。しかしながら、現在もその壮大さを伝えてくれるネクロポリスの遺跡。凝灰岩をけずってつくられた階段や、人が一人ギリギリ通れるようなトンネル。遊び心まで感じさせます。

ブレーラが、エトルリア時代に何と呼ばれていたのか、そしてその後のローマ時代でさえも町の呼び名はわかっていません。名前さえ残っていない古代都市のネクロポリス。あの世への旅立ちへの入り口としてつくられたネクロポリスからは、この世を満喫し、そしてあの世ももっと楽しむぞと考え、生も死も謳歌していた古代人の姿が思い浮かびます。

参考文献:
STUDI ETRUSCHI, GIORGIO BRETSCHNEIDER EDITORE1993
https://www.romanoimpero.com/2019/10/via-clodia.html
http://web.tiscali.it/prolocoblera/pontedrocca.htm


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