【読書記録】忘れられないものを抱えて『ミシンと金魚/永井みみ先生』
認知症というのは、悲惨な状態だと思っていた。けれど、違った。
この小説を読むまで、私は『認知症というのは何もわからなくなる病気』なのだと誤解していた。
けれどこの物語を読んで、その認識は誤りだったことに気づいた。
私は病気をテーマに取り扱ったものを読むと不安になるタチだが、これは認知症にかかることを恐れている人にこそ読んでほしいと思う。
それはこの物語が、認知症患者に同情するものだったり、患者そっちのけで介護している人の苦悩に焦点を当てているものではなく、どこまでも認知症を患っただけの『人間』に寄り添っているからだろう。
物語紹介
あらすじ
壮絶、だけどもリアル
光が現れては握りつぶされるような人生を送ってきた、主人公のカケイ。
彼女が人生を振り返る描写を読むと、ぎゅっと胸が締め付けられるような苦しさや切なさを覚えるけれど、決して読むのをやめようなんて思わない。
カケイが私の目の前にいて、彼女自身の人生を語っているような感覚を抱くからだ。
しかもその語りがあまりにも上手いので、彼女の人生を体験しているような気にもなってくる。信じられないことだが、もはや彼女の人生は私の人生だ、と思えてくるのだ。無論、途中で放り出すことはできない。
目の前にいる老人はいったいどんな人生を送ってきたのか。
最期にどんな光景を見るのか。
最期に何を思うのか。
その一心で、物語を追う。
そして、彼女の過去の語りが途切れたところで気がつく。
ああ、そういえば、今のこの人は認知症患者だったのだと。
病気を持っていたとしても、カケイはカケイ。
ヘルパーの『みっちゃん』と病院に行くときや、息子の死を何度も忘れてしまうなど、ふとした瞬間に認知症の綻びは現れる。
しかし、それは日常のふとした瞬間でしかなく、カケイ自身の人格を変えるほどの障害ではない。
病に侵されてさえ忘れられないものは、ちゃんとあるのだ。
むしろ周りの人の気遣いやカケイの考えによって、認知症であることが幸に転じることもある。
それと同じく、忘れたほうが楽になれるけれど、忘れようにも忘れられないものに苦しむこともある。
(それがタイトルにもなっている『ミシンと金魚』なのだが、それにこれ以上言及するのは避けよう)
私たちは、いや私は、認知症というのはその人のすべてを変えてしまうものだと思っていた。
しかし、周りからは奇異に映る行動であったとしても、その人のなかでは整合性が取れている行動なのだ、と気づく。
ちゃんと考えがあって、人格は消えないままなのだ、と気づく。
カケイはさまざまな不自由に縛られていて、時折健常者から見たら信じられない行動をすることもある。
けれどその人はまだ生きていて、現在のことは覚えられないかもしれないけれど、昔のことはハッキリと覚えている。
それだけで、認知症の不安を和らげるには充分だと思う。
私が不安がっていた理由は、ただ知らなかっただけなのだと自覚した。
最期の描写
とりわけ私の心を掴んだのは、いよいよ最期の日を迎えたカケイの描写だ。
これまでの人生の答え合わせのような展開に、創作物で泣いたことがない私も涙ぐんだ。
特にお迎えのときと、主人公の手に色とりどりの花が咲く場面。今日自分は死ぬのだと、静かに確信する場面。
『死ぬのが怖い』
そう思っている人は多いだろうし、私もそのうちのひとりだ。
だからこそ、この描写に私は希望を見出すことができた。
もし本当に、死ぬ直前に色とりどりの花を見られるとしたら。
自分が好きなものや人、思い入れのある存在がお迎えに来てくれるとしたら。
自分の人生の答え合わせができたら。
自分の人生に、死ぬことに納得できたら。
それほど幸せな瞬間はないだろうと、思える。
とはいえ、当面のあいだは死にたくないのも事実だが。
カケイのように、生きて生きて生き抜いてこそ、そのような瞬間が訪れると信じて、私は今日も明日も未来も生きていきたい。
最期の一文
序盤中盤と引き込まれ、一気にぐいぐいと読み進めたが、特に印象に残るのは最期の一文だ。
ネタバレになるので伏せておくけれど、言っても感動は変わらないのではないか、とも思う。
この一文単体だったら、別に何とも思わない、普通の文。
日常会話でぽつりと言ってみたら、特に不思議がられることもないかもしれないが、「そうだね。だから何?」と突っ込まれること必至だ。
けれどこの一文は、今まで読んできたどんな文章よりも私の心の強烈な一撃を与え、大きな余韻を残した。
この感動をぜひ、あなたも味わってほしい。