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「お葬式代くらい用意しておきたい」の謎

何年前からだろうか。
高齢者向けの低額保険のテレビCMで、やたらとこの言葉が聞かれるようになった。
そして必ずセットで「家族には迷惑かけたくない」というセリフも挟まれる。

お葬式代は用意しておかなければならないのか?
そもそもお葬式って家族にとって「迷惑なこと」なのだろうか…。


長生きはもうしたくない?

私の祖母の話をしよう。

90歳になる父方の祖母は持病を抱えているものの、日中に散歩や買い物をしたり、孫とケンカができる程度には元気だ。
その祖母が事あるごとに「ごめんね。こんなに長生きしちゃって」とこぼす。

私はいわゆる「おばあちゃん子」なので、その言葉を聞くたびに胸がキュッと苦しくなる。
しかし超高齢化社会になった現代では、「ポックリ逝きたい」と願っているお年寄りも多い。

なにしろ「ポックリ寺」が高齢者の人気スポットになるくらいなのだから。


健康であればいいけれど…

ところで日本には100歳以上の高齢者が何人いるか知っているだろうか?
2021年9月時点で、なんと8万人もいるのだ。

8万人がどのくらいの規模かというと、新国立競技場を満員にできる人数だ。
いや、オリンピックが無観客だったからちょっと分かりづらいか…。

ともあれ長寿人口はかなり多いわけだが、その8万人が全員元気かというと、もちろんそうではない。
長期間の入院中だったり、寝たきり生活で介護を受けている状態でも長寿は長寿だ。

昔は長く生きること=おめでたいことだったから「長寿」と呼ばれた。
しかし現代では医療の発展によって救われ、長らえる期間がどんどん伸びているため、長く生きる=人のお世話になるに変わり始めている。


迷惑と思われたくない

「生きている内は健康でありたい」
「介護を必要とする前に逝きたい」

世の高齢者は自分たちの長寿が社会に歪みをもたらしているのを知っている。

でも生きているのだから仕方ない

せめて自分のことを自分でできるように、周囲に迷惑をかけないように、運動をしたり認知症予防の趣味に勤しんでいる。

だが、誰にも迷惑をかけずに生きていくことなんて、本来できないのだ。

もちろん積極的に迷惑をかけるのは問題だが、社会のお荷物になることを恐れて生きるなんて、そんなのは悲しすぎる。


あえて残さない、というロックな生き方

ここで母方の祖母の話もしておこう。

父方の祖母が「長生きでごめんね派」だとしたら、母方の祖母は「長生きで何が悪い派」だ。
とても明るい人で「だって好きで長生きしてるわけじゃないもの」と、あっけらかんと話す。

しかし彼女もまた「死ぬ時はポックリ逝きたいわー」と言っていたので、心の中では長生きへの不安があったのかもしれない。
持病も無く元気に過ごしていたが、ある日突然倒れ、3ヶ月ほど入院した後にあっさり逝ってしまった。

死後、財産を整理して分かったのだが、祖母の貯金はほぼ0
「お葬式代ぐらい…」と心配する人を尻目に、「私のお金は私のために使ったわよ」と天国で自慢している祖母が思い浮かんで、私は彼女らしいなと泣き笑いしてしまった。


お葬式は誰のため?

先日友人が「私、お墓は要らないから死んだら海に遺骨を撒いてほしい」と言い出した。
しかし彼女は泳げないのに、死んだ後で海に撒いて大丈夫だろうか…。

それはさておき、遺言などで「お葬式はしなくていい」と望んでいても、やっぱり家族としては「そういうわけにはいかない」と一般的なお葬式をするケースはよくある。
結局本人の意志はあくまでも「遺志」であり、やるかどうかを決めるのは遺された人たちだ。

むしろお葬式は故人のためにするのではなく、その死を受け入れ、悼みたい家族や周囲のためにあるのではないだろうか。

だから「お葬式代くらい残しておかないと迷惑をかける」なんて思う必要は全くありません。
「長生きで何が悪い」と開き直ってほしい。
と、小さくなった身体で謝る90歳の祖母を見ながら思う。

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