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猫又

 凡太郎は、大店の丁稚である。なかなか手代にはなれないでいる。丁稚の次が手代で、そして番頭となる。これが奉公人の出世すごろくだ。中には、番頭が店を乗っ取るような形で主人になってしまうこともある。そうなると大出世だ。しかし、凡太郎にはそのような気配も野心もまったく見られない。何故なら頭が弱いからだ。これは生まれつきのものなのでどうしようもない。親だって、我が子の将来に期待をかけていれば、こんな名前など付けないことだろう。最も本当は、
「なみたろう」
 と読むのである。
「ぼんたろう」
 ではない。それでも皆は「ぼんたろう」と彼のことを呼ぶ。やはり、ふだんからぼんやりしているし、ひどく愚鈍で、ばかに見えるからである。それは彼の容貌にも関係しているかもしれない。目が離れている。その上斜視である。何処を見ているのか分からない。鼻は低い。ぺしゃんこで上向きだ。狆やパグという小型の犬のようである。唇は分厚い。まあ、全体として見れば愛嬌のある顔をしているということなのだが。それでも決して知的には見えなかった。むしろ知能が低いように見えるのである。こればかりは親を恨む他ない。本人の努力ではどうにかなるものではなかった。
 凡太郎は、店では主に猫の世話を仰せつかっている。接客や棚卸しなど、店の根幹に関わるような仕事はしたことがない。店の主人の奥方が、猫好きだったのだ。それで猫の世話を頼まれるようになった。猫の世話、とひと口に言っても半端な数ではない。少ない時でも五匹、多い時では十五、六匹の猫がいた。これは店の商売にも関係していていて、鼠を嫌うのである。米問屋であった。それでわざと店の周りに猫をうろうろさせている、という側面もあった。
 しかしやはり主たる理由は、奥方の生来の猫好きにあった。ことに、たまという雌の三毛猫を愛した。たまは毛並みはいいが気難しい猫で、奥方以外はほとんど誰にも懐かなかった。多くの奉公人が引っ掻かれ、時には手の平を噛まれた。猫が本気で噛むと恐ろしいもので、深い穴があく。これがなかなか治らない。中には化膿して熱を出す者もいたほどである。奥方が留守の時が恐怖であった。誰かがたまの世話をしなければならない。
 凡太郎にその大役が回ってきたのは、全くの偶然だった。その時、凡太郎には解雇して田舎に帰しては、という話が持ち上がっていた。日々の行動が余りに愚鈍なゆえだった。いちばんの主張者は、番頭の留吉である。この男は実直そうに見えるが、悪い奴だった。いつの時代にも、こういうタイプの男はいる。効率主義の男である。自分のカネでもないのに無駄を嫌う。結果店には収益が残るので、何やかんやいって重宝されたいた。
 留吉から見れば、凡太郎は「無駄そのもの」だった。
「無駄な奴は、排除しなければならない」
 それが留吉の哲学である。悲しいことに自分もいつかそういう無駄な存在になることなど想像できない男だった。
「おかみさん。凡の奴を田舎に返そうと思うんです」
 ある日の夜、留吉は奥方に直訴した。店ではお金のことは主人の決済が要ったが、人事に関しては奥方が握っていたのである。
「あら、ダメよ」
 奥方はその提案をあっさりと退けた。「だってたまがあの子になついているんですもの」
「何と、たまが——」
 留吉は絶句した。まさかそういう横槍が入ってこようとは予期せぬことだった。
「あの子、凡太郎にはたまの世話をさせます。田舎に返すことは許しません」
 奥方はぴしゃりと留吉に釘をさした。
「へい。承知いたしました」
 留吉はあっさりと引き下がった。しかし内心は腹わたが煮えくり返っていた。
『あの、クソ猫が——』
 それから留吉は、猫を憎むようになった。
 奥方の方は、凡太郎を呼びつけ、猫の世話をすることを命じた。
「それ以外の仕事は、もうしなくていいですからね」
 と奥方は言った。そのことはもう、主人に了解はとりつけてあった。「特にたまのことはお願いね。頼みましたよ」
「へい」
 凡太郎がかしこまって頭を下げると、それ迄奥方の膝の上で眠っていた猫のたまが、急に眼を覚まして凡太郎のそばまでとことこと歩いて来た。そして凡太郎の足に体をなすりつけて「にゃあ」と鳴いた。
 動物に好かれる者には共通項がある。純粋なのである。
 それから凡太郎の幸福な日々が始まった。つらい労働から解放され、日々ただ猫たちの世話をしていればいいのである。楽だった。と、いうよりまったく苦にならない仕事だった。この、「苦にならない」ということは仕事をする上で重要である。「好き」ではいけない。それはいつの日か「嫌い」になるという危険な要素をはらんでいる。「苦にならない」ぐらいが丁度いいのだ。
 たまもまた凡太郎にはよく懐いた。凡太郎が庭を歩いているとどこからともなく現れ、すり寄って来る。足に体を押しつけてごろにゃんと鳴いた。
 しかし、世の常として、幸せというのは長くは続かないものである。
 まずは奥方が死んだ。それは唐突な死であった。流行り病である。咳をして熱が出て寝付いたと思ったらあっという間だった。この流行り病は金持ちも貧乏人も分け隔てなく襲った。問答無用だった。人々は恐怖した。パニックとなった。病を鎮める薬はなく、怪しげな神に人々は祈った。そのうちに嫌な噂が流れ始めた。商人の使う船、交易船が病を持ち込んだというのである。それはあながち嘘ではなかった。町の人々は商人を憎むようになった。憎しみはやがてその商家で働く人間に向けられてゆく。あまつさえ、その家に出入りする猫たちにまで——
 最初に姿を消したのはたまだった。
 奥方が死に、野辺送りが済むと姿を消した。奥方の亡骸は、流行り病ゆえ火葬にしたのである。それは役所からの命令だった。目に見えない病原菌の拡散を恐れたのだ。
 たまは、町の人に捕まり殺されてしまったのかもしれなかった。凡太郎はたまを探し、街中を彷徨い歩いた。
「たまや、たま」
 その悲痛な呼び声は、やがて流行り病を憎む連中の耳にとまった。ある夜——
「おい。てめえは米屋の丁稚じゃねえか」
 路地の暗がりで呼び止められ、凡太郎は足がすくんだ。
「米屋のおかみが流行り病を運んできたってもっぱらの噂だぜ」
 それは完全な言いがかりだった。しかし、この手の連中は、ただ憎しみを向け発散させる相手を探しているだけなのだ。
 凡太郎は袋叩きにあった。感染を恐れてか、連中が使ったのは天秤棒だった。頑丈な太い木の棒でさんざんに打ち据えられ、突かれたのである。
 虫の息となった凡太郎が、米問屋に担ぎ込まれたのは深夜のことだった。たまたま通りかかった按摩が、倒れ呻いている凡太郎に躓き、驚いて番屋に知らせたのである。
「へい。まことにありがとうございました」
 真夜中に叩き起こされ、内心ではひどく不機嫌だった番頭の留吉は、凡太郎を戸板に乗せて運んで来た若い衆と先導してきた顔役にぺこぺこと頭を下げ、御礼の銭を紙に包んで手渡した。
「確かにこれは手前どもの奉公人のようでございます」
 戸板の上で苦しみ呻く凡太郎は面相が変わるほど殴られていた。
「医者にはいちおう診せた方がいいぜ」
 顔役は番頭に言うと、紙包の中の銭を確かめ、「おっ」「ま、いっか」と驚いたり満足しながら帰って行った。
「どうしましょう番頭さん。あの親方の言う通り、お医者さまでも呼んで来ましょうか」
 おろおろする他の丁稚たちに、番頭の留吉は、
「その必要はありません」
 と冷たく言い放った。「もう真夜中だしお医者さまだって迷惑だ。猫部屋に放り込んでおきなさい」
 猫部屋とは凡太郎が寝起きし、猫たちが出入りして餌を食う狭い部屋である。丁稚たちは恐る恐る、戸板ごと凡太郎を猫部屋に運び入れてそのまま放置した。それ以上何もしなかったのは番頭から特に何も指示されていなかったからだ。指示された意外のことをすれば、
「余計なことはするんじゃない!」
 と番頭から叱責されることは目に見えていた。こうして奉公人たちは、指示されたこと以外はやらなくなっていくのである。
 凡太郎は一晩中呻き続けた。天秤棒で激しく殴られたせいで体中あちこちに内出血ができており、そのためか熱もあった。今でいうショック症状を起こしていたのだ。凡太郎は死を意識した。このようにして死を迎えるのは予想もつかないことだった。
 明け方——
 猫部屋に、人が入って来る気配があった。凡太郎は熱と体の痛みで朦朧としていた。うすく目を開けて見るとそれは死んだ筈の奥方だった。ああ、お迎えが来たのだと凡太郎は悟った。
『それにしても、まさかおかみさんが自分のような者のお迎えに来てくれるなんて……』
 奥方の、美しい顔が目の前に迫ってきた。凡太郎の顔を、まじまじと見下ろしている。
「おかみさん」
 凡太郎がかろうじて口を開き呟くと、美しい奥方は「にゃあ」と鳴いた。
「ああ、たま……お前だったんだね」
 というと、凡太郎は息を引きとった。

(了)

 


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