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物質的な豊かさと人間としての豊かさの狭間で生きて思うこと。

『豊かさとは何か』
県立高校受検を終え、地元で一番の進学校に合格した後に、当時通っていた塾の塾長から勧められた新書がこれだった。社会学を大学で学びたいと思うきっかけとなった本でもあった。


ざっというと、これは日本人と日本社会が感じている豊かさを”物質的”と批判的に捉え、欧州の例を挙げながら人間的な”本当の”豊かさ”の重要性について主張している本である。
驚くのは、この本が最近ではなく”ジャパン・アズ・ナンバーワン”と謳われた1980年代後半のバブル絶頂期に書かれたものなのだ。高度経済成長期を経て豊かな生活を得た日本人が忘れ去ってしまったもの、それが人間らしくいきること。そんな「豊かさ」については昨今ではよく言われることだ。初めて読んだ時、私は全身で著者の主張を賛同していた。でも、現実はうまくいかない。

高校入学後、自分は自尊心の塊だった。地元で名前を知らない人はいない高校。旧帝大の合格者数は全国的に見ても凄いとされる高校。親族の中で初めてその学校の門を生徒としてくぐった自分は、「偉大な存在」と称された。(そんなの嘘だろうとかいう人がいるかもしれないが、未だに地方の公立進学校は神的な存在なのである)その中でトップでいることは県内でトップでいることも意味する。教育困難校に近いような公立中学から、大卒者がほぼいない一族から成り上がってきた誇りがあったせいか、そんな聖域に挑戦したくなってしまった。だから自分は「偏差値」と「テストの点数」を意識せざるをえなかった。東大や東工大などの超難関大の過去問が並ぶ平均点20点の数学のテストで80点とか、模試の偏差値が70いっているから目指すなら○○大とか。学校が勧める文武両道の名の下、週7の部活に入りながらも部活以外の時間を勉強に充てた。文庫本を読むよりも単語帳、音楽を聴くよりも英語のリスニング教材(勿論、吹奏楽の参考音源も同じくらい聴いたけど)。入学前には大賛成だった「本当の豊かさ」など忘れて、「物質的な豊かさ」ばかりに執着した。『豊かさとは何か』の続編の『豊かさの条件』を読んでもピンとこなくなっていた。


そんな怒涛の日々が3年間続いた。
大学受験の結果は、第一志望はダメだったけども県内では進学者が少ない有名大学に進学ができた。でも、その先に待っていたのは虚無だった。

確かに「社会学を学んで社会問題で苦しむことのない社会を作りたい」「留学やボランティアを通して幅広い視野を得たい」「上京して地元にはない価値観と優秀な人に出会いたい」という大学進学への目的意識はあったけど、充足感というものがなかった。思えば、大学の勉強は正解のないもの。特に自分が進んだ社会科学系を網羅的に学ぶ学科では、過去の”勉強”とは正反対のベクトルの学びを提供していた。でも、自分が充実している、豊かだと思えていたことは、効率的に答えを出したり、ある程度枠組みが整っているものを完成させたりすることを通して学歴をはじめとするライセンスを獲得し、社会で優位な立場でいることだった。でも、そうではないことを大学の授業や文献を通して再確認することになる。そして、自分が人間的なものを高校3年間で失っていたことに気づいたのである。

なぜ塾長が、有名高校に進学を決めた教え子にあの本を手渡したのかは、これで合点がいく。どうしても地方では、このような物質的な豊かさを求めるような手法を取らないと、地元の外に出られないことが多い。そんな人間性を謀殺される空間にいても、「本当の豊かさを忘れるなよ」と無言で応援してくれたのかもしれない。

『豊かさとは何か』が出版されて30年以上経っても、私たちは学歴、生産性、経済成長率といった硬直した物差しばかりで自分や他人、社会を評価してしまっている。そんな社会に出ていくしか社会人になれないのか...と絶望することが最近多い。でも、そうじゃない社会にしたい、研究したい、動きたいという思いを忘れたくない。

そんな思いを抱えて、本格的に社会学と向き合い始める。


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