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映画【ミッシング】鑑賞記録

石原さとみさん主演映画「ミッシング」を鑑賞しました。



公式サイト

サイト内にある「Document」や「Comment」などのコンテンツ。
映画鑑賞後に読むと、本当に心を捧げた制作過程があったことや、いろいろな立場の方の感性による解釈が興味深く、あらためてこの作品へ拍手を送りたくなりました。

「泣ける映画」は言葉足らず

突然娘が失踪し、娘を見つけたい一心で過ごす夫婦。
結論的には娘は見つからず、消息不明のまま音沙汰もなく、今どこにいるのか、もういないのか、なぜいなくなったのか、すべてが明らかにならないまま、この作品は終わってしまいます。
その喪失感と絶望感の中で、石原さとみ演じる母・沙織里は、感情も言動もどんどん過剰になり、その姿は醜く痛々しい。
支える夫も、情緒不安定な妻と生きていくためには自分が冷静にならなければならず、さまざまな感情を押し殺して、必死にやっと生きている。
夫婦を取材するメディア、事件に好奇の目を向ける大衆。
ただひとつ、たったひとつ、娘に会いたいという願いだけを頼りに、あらゆることに耐え、あらゆるものに縋り、娘に会うためだけに生きているような夫婦。
その姿は本当に苦しく、どうにも涙が溢れてしまうシーンはたくさんありました。

ただ、感想として「泣ける映画」と一言で評価してしまうのは、あまりにも軽々しい気がしてしまいます。
確かに泣けるけれど、鑑賞後の余韻は重くどんよりと心が沈むし、観ながら自分が流した涙は何のための誰の立場での涙だったのか、未だに整理がつかない。
とにかく物凄い迫力で、物凄い熱量で、言語を超えて伝わってくるものを、ただただ投げつけられ、問いかけられ、ずっしりと心に背負って劇場を後にするような。
そんな重みのある作品でした。

生々しい現実を切り取ったような映画

物語の冒頭は、まだ娘の美羽がいた頃の、美羽と母・沙織里、父・豊との家族仲睦まじい何気なく穏やかな日常のシーンから始まります。
そこから一変して、美羽が失踪してから3ヶ月が経過し、夫婦が行方不明の娘の情報を募るビラ配りをしているところへと一気に展開。
事件発生以降、美羽の足どりも、犯人も、捜査にはほぼ進展がなく、この時点で既に事件についての世の中からの関心はなくなっている状態。
唯一取材を続けてくれるのは、地元テレビ局のみ。

この、ある程度の時間の経過とともに薄れていく世間の関心度合がとても生生しく、その中でたった二人、沙織里と豊の時間だけが止まっている。
その二人の姿を観ながら、涙したり、ハッとしたり、考えさせられたり、胸が苦しくなったり、時には引いてしまうほどの様を見せつけられるわけなのですが、そんな風に二人の姿を見守る自分でさえ、沙織里と豊"以外"の方、その他大勢の立場にあるわけで。
「子を持つ親なら共感出来る」と軽々しく言えるようなものではなく、ただただこの世界のどこかにいるかもしれないこの家族に起きた悲劇を、ドキュメントのように見せつけられているような感覚でした。
それくらい、救いの無さも、世の中の冷酷さも、現実の厳しさも、生生しく、じとっとするような誰かの悪意と心地悪さが、常に漂う作品でした。

光は差すのか

公式サイトにも、「光を見つける<わたしたち>の物語」とあります。
レビューでも、最後に差す光にほっとしたという感想が多いようで、確かに光のようなものをふと感じられるシーンはありました。
ですが、その光さえも、なんとかして生きていかなければならないから無理やり見出して希望だと縋った光のような、そんな感覚で。
失ったもの、圧倒的に欠落している事実に対するもどかしさ、不条理さ、納得のいかなさ、冷酷さの絶望の闇の中で地を這いずりまわっていたような状態から、確かにあったものの尊さや愛おしさを思い出せる人間らしい余裕が生まれたという変化は、確かにポジティブな変化であり、観ていてほっとしました。
それでも、その先に何かが解決するわけでも、その圧倒的に欠落したピースが戻ってくるわけでもなくて。
ほっとしたのは、「ああまだ人間だったんだ」「まだ誰かを想えるんだ」「まだ笑えるんだ」、そう思えてほっとしたからだと思います。
けれど、何度そのような瞬間が訪れたとしても、いるはずの娘がいないというその喪失感と欠落感が消えることはなく、光が差す分、苦しさも際立ってしまうような、そんな感覚になりました。
一方で、生きていくためにはどうしたって光が必要だと、その光を見つけることさえ出来れば生きていけるというメッセージだとも受け取ることが出来るかもしれませんね。

公式のヴィジュアルにもある、石原さとみさんのこのカット。
視聴後にはこの虹色の光の意味がわかりますが、その光と、この表情。
やっぱり私は、最後に希望が差したとは言いきれない余韻に浸ってしまいます。

「ミッシング」公式サイトより



結局誰が悪いのか

そもそも美羽は連れ去られたのか事故に巻き込まれたのか、それさえも不明瞭なままなのですが、これが事件である前提において、"悪"はただ一人、美羽を連れ去った犯人のみのはず。
それなのに、時間が過ぎて、世の中の関心は本質とは違うところに向けられ、その大衆の好奇を相手にした商売をするメディアにもさらされる。
耳を疑うような誹謗中傷、あることないこと騒ぎ立てられる日々、そして、圧倒的多数存在するであろう無関心の人々。
この夫婦の周りで、さまざまな悪が不愉快に渦巻き、夫婦も、沙織里の弟も、不必要に尊厳を傷つけられていく。
明らかに何かが、誰かが悪なのに、その悪が姿を見せない。
言葉で語られない。
それもとても生生しくて。
大衆も、メディアも、人も、世間も、みんな何かが欠落している。
その虚しさや愚かさを感じました。

石原さとみさんの慟哭

この作品における石原さとみさんのお芝居は、本当に圧と迫力があって、全身全霊を捧げて挑んだ作品であったことがバシバシと伝わってくるものでした。
どんどん荒んでいく姿や、口の悪さ、常に苛々して、感情をコントロール出来ず、傷つけ、傷つき、なりふり構わない感じ。
それでも日々を生きていかなければならないから、働いたり買い物をしたりもする、リアルな感じ。
生きている理由は、ただひとつ、娘に会うためという、必死さ。
そういったものを感じさせるお芝居のひとつひとつがとてもリアルで印象に残っていますが、中でも一番驚いたのは、美羽が保護されたという内容の電話がいたずらだったことを知った瞬間の慟哭のシーンでした。
あれはもう、観ていて鳥肌が立つというか、凄まじい慟哭でした。
泣き喚くというよりは、うめき声のような、あの低く掠れた、声帯ではなく身体全体から溢れ出す、怒り。
なんとかぎりぎりのところで保っていたものが決壊して狂ってしまった瞬間。
人間を超えた、生き物としての慟哭。
お芝居なのだけれど、とてもお芝居とは思えない、魂が壊れる音のような。
あのシーンが、いまも頭にこびりついて離れません。


冷静であらなければならない夫

夫・豊役の青木崇高さん。
この物語の感情を担うのが沙織里だとして、豊は常に努めて冷静であろうとして、自分の心の感情の起伏をなんとかなんとか押さえつけている人。
娘を失った喪失感に加えて、目の前でどんどん壊れて狂っていく妻を見ることの苦しみも相当なはずですが、なんとか父親でいるために、夫婦でいるために、生きていくために、冷静であり客観的であろうとする豊が、どうにも抑えきれずにこぼす涙や吐く言葉に、泣かされました。

また、ぶつかり合うことがあっても、いざという時には豊が沙織里に触れる。
頭を撫でたり、背中を支えたり、手をとったり。
その触れ合いからは、途方もなく大きな愛情や絆が伝わってきました。
母親と父親、妻と夫。
もともと美羽がいた頃も、家庭内では沙織里が中心にいたのではないでしょうか。
リアルな家庭における妻と夫のリアルな温度差というか、立場の違いというか、物の味方の違いが表現されているようで、石原さんと青木さんのお二人のバランスによって、この物語が成立しているように思いました。


彷徨う砂田

中村倫也さん演じる記者の砂田。
報道のあり方について自分なりの正義感や倫理観をもっているものの、それが通らず、コンテンツとして消費されていくメディアのあり方に、自身が勤めながらも疑問と反発を抱いていく役柄。
一方で、仕事ですから、最後は上司の言いなりになるしかなかったり、どこか記者として感情を殺して演出指導をしたり、そうやって仕事をする姿も、ある意味とてもリアルで。
この中村倫也さんの存在が、翻弄される夫婦の横で、部外者としてとても冷静に地に足をつけて生きている"普通"さがあって、とてもよかったです。

報道は事実を伝えるもの。
その大義名分のもとで、事実に意味をもたせた切り取りをして、伝えていくメディア。
事実なんて、捉える人、切り取る人、受け取る人によって、いかようにも解釈が出来る。
ありのままを伝える、正義、倫理、常識、それって何だっけ?
大きな虚しさを抱きながらも働く悶々とした感じがとても伝わってきました。

音に泣かされるエンドロール

物語が終わり、エンドロール。
出演者名が表示される中、流れてくるのが、物語の冒頭で聞いた、美羽がいた頃の日常の、穏やかでありふれた愛おしい音。
美羽の声、時折聞こえる沙織里の声、穏やかな軽やかな笑い声。
これが流れてきた時、思わず涙してしまいました。

たったこれだけのことを、もう一度したいだけなのに。
当たり前だと思っていた日常に、戻りたいだけなのに。
自分が産み育てた、これからも一緒に生きていくはずだった娘に、会いたいだけなのに。
音でこんなに泣かされるエンドロールがあるとは。
しばし放心状態でした。



なかなか簡単に人におすすめするには重いし、もう一度観たいかといわれると構えてしまう、そんな作品でしたが、観てよかった、観ておくべきだったと思えるものでした。
鑑賞された方のさまざまなレビューを拝見するのも、気付きになり、楽しいです。

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