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コミュニティーづくりで探る「共生の方法」

なぜ人って歌を歌うんだろう

今井 今回も北海道で文化芸術プロジェクト作りに関わる木野哲也さんにお話を伺います。今の木野さんのお仕事「アートディレクション」というのでしょうか、この仕事にどういうふうに行き着いたんでしょうか?

木野 さかのぼると、高校生ぐらいかもしれないですね。「こういうことやるぞ」って思ったわけじゃないんですけど、アートというか、文化事業だったり文化活動を仕掛けることが今は多いですけど、元々プレーヤーだったんですね。例えばパンクバンドをやってたり、ヒップホップをやってたり、スケボーをやってたりとか、スノーボードの大会に出てたりとか、今思えば自分が表に出る、プレーする側だったっていうのは実はすごく大きかったです。そっち側の気持ちがわかるっていう意味で。何かを作るという意味では、例えばバンドをやってたときに、他の高校の連中と一緒にイベントをやるわけですよ、どこかの場所を借りて。そしたらチラシを作ったり、デザインしたり、それをコピーしたり、それを他の高校とか好きなお店とかに配ったりする、そういう行為っていうのは、実は一番最初にやってたのかなと思うんですね。田舎の町だったので、札幌に大学で出てきたときに、チラシ、いわゆるフライヤーって言い方しますよね、札幌自体が大都会だったっていうのもあるけど、いろんなお店に行ったらいっぱいチラシが置いてあるんですよ。それを片っ端からもらって、全然わけがわかんないジャンルの踊りだったり、演劇だったり、時にはおばちゃんたちの合唱コンクールみたいのにも行ったりとか、そうやっていくうちに、だんだん人が何か創作をすること、それはプロとかアマとか問わず、そこになんかぐっとくるようになったんですよね。そんな感覚の変化が大学生の時にあったのですが、自分が好きなジャンルの音楽なんて、多分世界中に存在する音楽の中のほんの僅かで、僕自身はきっと世界の音楽の1%ぐらいしか知らないんだろうなって、悟るじゃないけど、そんな感覚になったんです。そのときはうまく言葉にできなかったと思うんですけど、例えば寝て起きてご飯食べていれば生きていけるじゃないですか、極端な話。なのに、なんで人は歌うんだろうとか、なんで書くんだろうとか、なんで音楽作ったり踊ったりするんだろうって、そういうこと自体に、僕はすごくグッとくるような感覚を得たことが結構大きかったんです。

村上 大学では何を専攻してたんですか。

木野 国際文化学部コミュニケーション学科比較文化専攻っていうところでした。そのなかで「環太平洋文化論2」っていうやつがめちゃ好きで、何かポリネシアとかメラネシアとかミクロネシアとかの環太平洋の人たちの生活文化ばっかりを話す授業で、それがなんかすごいどハマりして。
その先生の奥さまが、いろんな世界中の料理を作る料理研究家で、そのご夫妻との出会いも僕はすごく大きかったです。

村上 前回出ていただいた国松さんとはまだ出会ってないですか。

木野 そうですね会ってないですね。国松くんは2002年か3年に、僕がすすきので企画したアートのドローイングとヒップホップとジャズのバンドの組み合わせのセッションみたいなのをしたときに、国松くんが遊びに来ていて、出会って意気投合して、白老町の飛生というところでアトリエをやってるという言葉が僕ズドーンってささって、そこが彼とのきっかけでした。

村上 なるほど。飛生のコミュニティーに関わって行くときに、文化芸術っていうちょっと違った視点から、そのミクロネシアの生活に興味を持ちながらとか、先生との出会いなどがつながってきているように見えるんですが、そのあたりはどうですか。

木野 いや、大学生のときにブラックミュージックとか、それが生まれている場所にどうしても行きたくて、アメリカ縦断をするんですよ。ニューヨークとかフィラデルフィアとか、シカゴとか、ニューオーリンズとか、割とブラックカルチャーの強いところを肌で感じたくて、学生のときに行って、そこでいろんなことを考えたっていうのもあるし、一方でアジア圏、ネパールからインドへバスで渡って、そんなに長くはなかったけどそういうアジアを見たいっていう思いがあって、それはそれで自分の中でも知らなかったので、世界のたったそれぐらいの地域だけど、見たかったんです。それで帰ってきて就職活動期を迎え、音楽のCDとかレコードとかを売る会社に就職したんです。そこで働いていたらすごく大きな出会いがあったんです。名前を言っちゃうと川村年勝さんという方に会ったんです。その方がCDを10枚ぐらい手に持って杖を持って、階段の上が僕らの職場だったんですけど、歩いてきて。なんだか変なおじさん来たな、ヒゲもじゃもじゃでと思いました。要件は「このCDを置いてくれ、委託販売してくれ」っていう話だったんですけど、まあそれは「置きましょう」ってことになってその話は終わったんです。結局そのCDも後々すごい興味をそそるCDだったんですけど、その方を駐車場に送ったときに、僕、どうしても気になって、川村さんに「僕、川村さんの家に遊びに行っていいですか」って言ったんです。そしたらもう「すぐ来い」って言われ、多分その日かその次の日に川村さんちに遊びに行ったんです。その方はジャズのプロデューサーで、いろんな音楽とかのプロデュース・仕掛けをする人だったんですよ。
その後、その人の家に毎日通うようになっちゃって、その人との出会いが大きかったんです。


村上 僕がすごくなるほどって思ったのは、ある種、瞬発力なんだけど、ただ単純な勢いではなくて、ほれちゃうってものと、知った気にならないで見に行く、そういうところが一つ一つのエピソードの根底に感じるんですけど、ご自身も「そうかな」って思うことありますか。

木野 その通りですね。世界のことを自分はほとんど知らないって思ってますし、慣れちゃうよりは、フレッシュでいたいですよね。
だから僕は、その後、札幌に来てやり始めた企画で、古民家とか、謎な場所とか、レストラン、カレー屋さんとか、そういうところですぐやり始めましたね。それこそ国松くんと若いときに、北海道大学の元教授が住んでた古民家レストランがあり、たまたまそこの店長が友達で、僕はいろんな分野のバンドに出演してもらう他に、水槽に絵の具をポンポンって垂らしてそれをOHPで投影したり、寿司を握りながらターンテーブルも回す人がいたり。そのお店の中庭で国松くんがチェーンソーを持って彫刻やっていて、その横では焼き鳥を焼いているような光景。「一言で言えないもの」を好んで企画してましたね。

村上 すごくリズミカルな気がするんですよね。判断も行動も。だから、前回紹介いただいた「15か条」の話とかも、もはや僕にとって何か歌詞のフレーズの15項のようにも聞こえてきちゃうし。そういうリズムをすごく感じる気がするんですけど。

木野 たぶんヒップホップが好きだからですかね・・・違う、そういう答えじゃないですね・笑。



村上 笑。しっくりくる感じはします。音楽を長く、人より多分たくさんしてきたことがあるんですかね。

木野 いやいや、そんなことないですよ。ただ好きな音楽が好きだっていうだけであって、逆に言うといろんな音楽のジャンルを札幌に来てから知るわけですよ。あと、むしろアートとか、ほとんど僕は関心がなかった。知らなかった。美術の世界。ただたまたま例えばスケートボードとか、ヒップポップとかパンクとか、そういう彼らが作るジャケットとか、雑誌とかビデオとか、そういうものはものすごくかっこいいと思って見てたので。僕の中でアートはそういうものだった。だから札幌に来て、出会っていくものの中に、知らない人たち知らない世界、そこに携わる人たちをすごく見たかった。見ていく中で自分の中で何かが起きていったんでしょうね。

「関わりしろ」から何かがはじまる

村上 アートっていうと、物を鑑賞する領域が多いと思うんですけど、ずっと不思議だったのは、どちらかというそういう興味よりも、飛生は時間そのものだっていうようなことも言っていましたし、文化っていうキーワードだったり、下りていくってか、すごく今の行動原理の中にもそのリズムがあるみたいに、止まってるものではなくてずっと動いていて、そこに人がどんどん入ってくる、その辺にもし木野さん流みたいなことが言えるのかなと感じたんですけど。

木野 そうですね、うまく言えるかどうか、僕が興味があることは「関わりしろ」です。例えばミュージシャンだったり、彫刻だったり、演劇だったり、いろんなアートの形があると思うんですけど、最終的に作品を発表するにしても、そこに人が関われるかどうか、そういったものをはらみながら進んでいくアートに僕は関心があって、「飛生から降りてきた」っていう話もあったと思うんですけど、奥地の飛生のから町へ降りてきてやってることは、ほとんどそういう内容です。

村上 常に完成させるっていうよりも、未完成な状態の領域を残しつつ、そこが何か周囲から見たときに何かこう引きつけられる魅力の一部にもなっているような、そんな感じがしますけど。

木野 そうですね。例えば札幌とか都会でやるときってまた感覚が違うかもしれないけれども、白老町でやってるのは、ほぼ前例がないことが多いし、例えば文化芸術に触れる機会自体がそもそも少ない地域だったりもすると思うので、そういう意味では、自分ができる範囲で、子供とか小中高生とか高齢者や、いろんな施設に入ってる方とかが関われる方法ってこういうやり方ならできるんじゃないかとか、その方法の正解はもちろん知らないんですけど、どうやったら、どんな人とだったら、どんなプロジェクトだったらかなうだろうか、理解をしてもらえるだろうか、それを考え、組み立てることをしています。

今井 木野さんが本当にこれまでいろんな表現ご自身もされてこられたしいろんな表現を見てこられて、しかもそれに一つ一つすごくワクワクしてるんだなっていうのがすごく伝わってきました。
やっぱりその飛生に森を作った理由っていうのも1割のもう表現方法が決まった人のためではなくて、残りの9割の人たちの場所を作ったってことなんだなっていうこともすごくわかりましたし、多分9割のまだどういう表現が生まれてくるかわからないところから、新しい表現が生まれてくるその可能性にかけているのかなっていうふうに私はすごく感じました。
最後に少し伺いたいんですけれども、僕たちこの番組、ネイティブという名前でやっていますけれども、そういったコミュニティーを長く続けていくために何かアイディアやお考えはありますか。

木野 そうですね。これっていうかっこいい答えはないんですけど、僕自身もいつも思うようにしてることがあって、「Ways of Living Together」っていうんすか、「共生の方法を考える」こと。それは答えがきっとないんだろうけど、考え続けるスイッチが、5年ぐらい前にきっかけがあって、それがどう続けていけばいいんだろうか、どうやって人と関わってどういうコミュニティーがあったらいいんだろうか、健全なんだろうか、心地いいんだろうか、認めてもらえるんだろうか、そういうのってきっと共生の方法を考えていくことなのかなと思っています。

(文 ネイティブ編集長・今井尚、写真提供 永樂和嘉)

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次回のお知らせ

地域、コミュニティー、アート…ここ3シリーズにわたり、ある地域とそこに関わる人々をキーワードに話を聞いてきました。次回からは村上祐資と今井尚がこれまでの数回を振り返ります。継続的にかかわり続けるために必要なこと、あるいはどのような関わり方が、双方にとって無理のない形なのか、おぼろげながらにヒントを得た気がしています。

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