物語を書くことについて

百文字で完結する小説を書き始めて、30編を超えた。
「小説」の私の定義の中に「フィクションであること」がある。ノンフィクションであればそれはエッセイでありルポルタージュである。
そして私小説はフィクションがあれば小説だという私の見解。98%リアルでも2%フィクションが入ってれば小説。私の「ひゃくもじ」を書くにあたってのマイルールです。(書いてみたら全部リアルだったなってこともあるけど。どないやねん。)

物語を書くという行為には一種のカタルシスがある。自浄作用とでもいうのか。
心の傷ついた部分を取り出して物語として再編することで(そしてそれを人目に晒すことで)、その傷と今の自分との距離を測り直すことができる。
これが私の実感だが、この場合の「物語」は臨床心理の場で「ナラティブ」と呼ばれる。私は興味のある分野だったのでこの言葉を概念としては知っていたけれど、そのためにこれを始めたわけではなかったので予期せぬ副産物だった。そして今となってはそれこそが「ひゃくもじ」を続けるためのモチベーションになっている。

私の「ひゃくもじ」の中には大きく分けて自分の未消化な出来事を表現し直す私小説とあるワードに導かれて物語が展開していくまったくフィクションの小説の2種類がある。その中間もいっぱいあるけど。前者はもちろん、後者の中にも突如自分の傷やわだかまりを発見することがある。そしてその両者ともが、私の心の中の澱を洗い流し私に癒しと赦しを与えてくれる。
「赦しを与える」というのは今書きながら浮かんだ言葉だけどとても腑に落ちた。言葉にすることで「大きな失敗も存在していいのだよ、ネガティブな感情も感じていいのだよ」と赦されているような気持ちになる。

ついでに「ひゃくもじ」の魅力をもう一つ挙げるなら、100文字の中に想いを過不足なく詰め込む気持ちよさがある。箱庭療法にも似ている。
もちろん100文字では多くのものがこぼれ落ちてしまうのだけど限られたスペースの中で厳選されたストーリーの要素たちが「整う」瞬間がある(こともある)。この場における全能感を得ることもまた快感だ。

北野勇作さんの百文字で小説を書くというアイデアを真似て始めてみたけれど、彼の百文字と私の百文字は全然違う。
北野さんの百文字にはSF的要素や風刺が入っていてエンターテイメントとして完成されている。一方私のは全体的にウェットで内向的だ。一人称の小説だと言える。物語に「赦し」を求めている私だからこそと言えるだろう。

本当のところ、この100文字の文字列を小説と呼んでいいのかとか、私の文章を人はどう思っているんだろうとか、いつも不安を感じている。独りよがりの肌寒いものだと思われてはいないか、とか。(思われてるに違いないが。)
でもそんな時マッチ売りの少女がマッチを擦るように、私は物語を紡ぐのだ。

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