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混沌の意味

最近バーバパパのEDMをよく聴いている。

彼の音楽・動画の中毒性の高さは既に話題になっている。この中毒性は「混沌」の見せ方の上手さによるものではないかと思う。ただの混沌は退屈だが、意味の与えられた混沌は興味深い。一見脈絡なく思えるものが、実はストーリーを紡いでいるかもしれない、という状況は人の興味を掻き立てる。

では、どのようにして混沌に意味を付与するのか。その最も効果的な方法は、「秩序」と対比させることだ。そもそも、原始の世界は秩序を持たない。秩序などというのは人間が後付けしたものだ。人間が(我々にとっては長いが世界にとっては短い)歴史の中で規律を与えてきたものが辛うじて秩序であり、それ以外の広大な領域は依然として混沌のままだ。混沌だけを見て意味を与えようとするのは、暗闇の中で間仕切りを作ろうとするに等しい。その間仕切りは「何でもいい」が故に「何の意味もない」。そのため、混沌が意味を持つとすれば、それは秩序との対比においてしかない。

バーバパパの作品は、特異な世界観ゆえに全てがカオスとして語られがちだが、その世界観のなかでも混沌と秩序とが丁寧に使い分けられている。

0:13以降のカットでは、教室の中心に一人の男が曲に合わせて体を揺らしている。これに似た構図は1:04以降に現れるが、そこでは天井や壁に複数の男が左右非対称に張り付いており、不規則に顔を揺らしている。前者のカットがあったからこそ、後者の異質さ・異様さが際立つ。

1:08以降の場面では、白染めの人間が足の生えたラジオの周りで踊り狂っている。同じ道を映した場面は2:40以降に再度現れるが、そこではラジオと人間が並んで歩いている。

この作品は主旋律の音程を意図的に外している。音程のズレという混沌は、受領者の内面にある秩序(=視聴者が既に知っているロボットパルタの曲)と対比され、意味を付与される。


少し話が飛躍するのだが、オリンピック閉会式の不評は以上の点に関連しているのではないだろうか。

振付を担当した平原慎太郎氏はコンセプトを大会全体と同じ「ダイバーシティ&インクルージョン(多様性と調和)」に設定したと説明。ダンスやパフォーマンスは「とにかくカオスを作ろうとした。自分の中で社会はカオスだろうというのがあって、その中で秩序を見いだすのも社会の取り組み。まずカオスを作り、それを秩序化させていくプロセスを1つの音楽でみんなで楽しむ」との狙いで企画したという。

カオスを見せるのは簡単だ。なぜなら世界のほとんどはカオスだからだ。適当に世界を切り取って提示すれば、それは混沌を表現したことになる。問題は、混沌にどのような意味を与えるかだ。秩序の見せ方によって混沌の意味は変わる。いかなる秩序を混沌と対比させるかという選択が重要なのだ。

オリンピック閉会式は「まずカオスを作り、それを秩序化させていく」という手法を採ったようだ。それならば、秩序化のプロセスや結果を丹念に表現しなければならなかった。しかし閉会式の演出はそれを怠った。このため、それぞれの観客が自己の内面にある秩序に照らして意味付けをするしかなかった。そして閉会式の表現は、あらゆる受領者の多様な秩序との対比に耐えうるほど奥深くもなかった。(おそらくこの点が、カオスがカオスのまま受容される作品との決定的な違いだった思う。)結局、閉会式は「全てを意味する」がゆえに「何も意味しない」ものになってしまった。

型があるから「型破り」、型がなければ「形無し」。これは元々歌舞伎の教えらしいが、あらゆる表現・演出に通底する考えであると改めて思わされる。

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