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一期学舎をはじめます その1

少しずつ準備を進めてきた自主学習支援事業、春から動き出すぞ!

…と思った矢先のコロナ禍。

最前線に祈りを捧げつつ、今は自分ができることを積み上げていくしかない。

とうわけで、今までぐるぐると考えてきたことを自分の整理がてらアウトプットします。

あ、ちなみに、自主学習支援事業の名前は

一期学舎(いちごがくしゃ)

を予定していますが、命名の由来はまた追い追い。

ベースはまなび場プロジェクト

まず、ベースになるのは2005年にまなび場プロジェクトという名前で立ち上げて数年間やっていた自主学習支援の活動。

わからないところは見守り役の大人に聞いたり参加者同士で学びあったり

将来の夢と言われても現実味を感じない場合には、いろんな大人の「こんな生き方もある」話を聞いてイメージを膨らませたり

そんな場を設けていました。

こちらに断片的な記録が残っています。

内発的動機づけを引き出す場

まなび場プロジェクトの基本的な考え方は『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』が元になっています。私が下川町に移住した1999年に出会った本です。

まなび場は、この本で言う「内発的動機づけ」を引き出す場になれればと思って運営していました。

「内発的動機づけ」とは何か。少し長いですが本文から引用します。

 二十世紀のおそらくもっとも偉大なアメリカの美術教師であるロバート・ヘンリは、この内発的動機づけの本質を理解していたに違いない。彼は次のように記している。「もしかしたら、途方もない考え方のように聞こえるかもしれないが、絵を描くことの目的は、絵を完成させることにあるのではない。絵が描くことの結果として生じるならば、絵はしたことのしるしとして役立ち、価値があり、興味深くもあるだろう。しかし、それはあくまでも副産物にすぎない。真の芸術活動の背後にある目標は、存在の本質的状態(a state of being)に到達することである。」ヘンリの指摘を簡単に言えばこうなる。内発的動機づけとは、活動それ自体に完全に没頭している心理的な状態であって、(金を稼ぐとか絵を完成させるというような)何かの目的に到達することとは無関係なのである。 *27-28頁

ここから著者は仮説の設定と検証へと向かいます。

 多くの場合、幼児は、何かを達成する手段としてではなく、単に好奇心から、知りたいという理由で学んでいる。このような彼らの学習は明らかに内発的動機づけにもとづくものであり、彼らが学習に没頭する様子はヘンリのいう「普通に存在している以上の状態」の原型だといえるだろう。 *28頁

 内発的動機づけの概念によって、幼児の活動にみられる現象を理解することができるわけだが、この内発的動機づけが見たところもろいのが非常に気にかかるところである。そして、この見かけのもろさが、子どもが年長になるとなぜ学習への内発的動機づけがなくなってしまうのか、という先程からの問いと直接関連している。私は一九六九年にこの問題に思い至って、次のようなーーたしかに不敵なーー考えがひらめいた。学校では、子どもたちを動機づけるためにあらゆる種類の報酬や規則や管理が広範に利用されているが、実はこのようなやり方自体が悪者なのであり、それらは学習のワクワクするような気持ちを促すどころか、逆に子どもたちを無気力で惨めな状態におとしめてしまうのではないか。 *28頁

 何かが解明されるのではないかという予感に駆り立てられた私は、自分の問題意識を次のような実験可能な問いとして明確化することができた。すなわち、「もともと報酬なしで自発的に取り組んでいる活動に対して外的な報酬が提供されたとき、その活動に対する内発的動機づけはどうなるのだろうか。」私は、実験で扱う報酬として金銭を用いることに決め、学位論文のための研究プロジェクトに着手した。 *28-29頁

そして「一連の実験研究によって、動機づけの方法として報酬を用いるとマイナスの効果が生じること」(39頁)を明らかにし、さらに内発的動機づけの源へと研究を深めていきます。

その結果たどり着いた境地については「訳者あとがき」にこうあります。

 デシ先生は内発的動機づけのみなもととして「自律性への欲求」と「有能さへの欲求」と「関係性への欲求」を想定している。言い換えれば、内発的動機づけは自律的でありたい(自己決定したい)、有能でありたい、周囲の人と暖かい人間関係を持ちたい持っていたい、というような気持ちに支えられているといえる。じつは、本書もこのような考えに沿って書かれている。第Ⅰ部では自律性と有能さのことが、第Ⅱ部では関係性のことが中心である。 *290頁

まなび場プロジェクトの時は、この自律的でありたいという気持ちに寄り添って、自分の将来の夢を自分で描き実現するお手伝いとしての自主学習支援が柱でした。

なので、将来の夢や目標を「内発的動機づけ」の起点として位置づけていました。

夢や目標は「内発的動機づけ」の起点になりうるのか

さて、あれから十数年が経過し、あらためて「内発的動機づけ」を引き出すような場をリスタートしようとしたときに

夢や目標は「内発的動機づけ」の起点になりうるのか

という問いと向き合うことになりました。

この問いが生まれた背景には、大ベストセラーになったこの本の存在があります。

この本を読む限り、アドラー心理学では、夢や目標に向かう生き方を

計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能 *265頁

と一蹴します。

さらに

一般的な人生の意味はない *277頁

とも言い切り

人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那 *266頁

といった具合に、前出のヘンリが絵を描くことを引き合いに出したのと同じような指摘をしています。

一方で

人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ *278頁

と説き、人が自由を選ぼうとして道に迷ったときの大きな指針、「導きの星」として他者貢献を掲げます。

そして、この他者貢献にあたっては

他者からの承認は、いりません *255頁

「貢献感」を持てれば、それでいい *252頁

と。

うん、わかる。今の自分なら。知った当時は衝撃を受けたけど、だいぶ馴染んできました。

ただ、自主学習支援事業でボリュームゾーンとしている中学生に響くかというと、人を選ぶというか人が選ぶというか。

自分がそうだったように、夢や目標に向かう生き方を当たり前のこととして受け止めてきた保護者・子どもが大半だろうし、それはいろんな場面で日々強化されているように感じるので、ハードルが高そう。

「内発的動機づけ」の起点を夢や目標にしないのなら他に何があるのか。

「死」はどうか。

最後の日を意識するアプローチはどうか

毎朝、鏡に映る自分に「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と問いかけていた…スティーブ・ジョブズのエピソードを思い出します。

また、自己啓発系で有名な『7つの習慣』にも

第2の習慣に「終わりを思い描くことから始める」があり、自分の葬儀で家族や友人にどんな弔辞を述べて欲しいのかを考えるワークがあります。

夢や目標に向かう生き方は、その実現のために「いま、ここ」を犠牲にするという側面があるのに比べ

最後の日を意識する生き方は、それこそ今日死ぬとわかっているのなら「いま、ここ」を犠牲にしようと思うはずもなく、最も大切なことを優先して時間を使うでしょう。

また、夢や目標を持つことは、人によりイメージできる強度が違い、具体的にイメージできない人もいるし、AIを始めとするテクノロジーの発展により今ある職業がこれから先どうなるかわからない時代なのでリスクもあり、万人向けとは言えません。

一方で、死は誰にとっても切実で回避不可能な出来事なので、万人向けと言えるでしょう。

ただ、最後の日を意識するアプローチは、臨終の間際に「後悔しないため」という目標を設定し、そこから後ろ向きの発想で「いま、ここ」を捉えているので、今を生きる躍動感が薄れてしまう気がします。

思春期真っ只中の中学生には、死の切実さよりも生の躍動感を伝えたい。

自主学習支援事業の一環で最後の日を意識するようなワークにも取り組みたいと思いますが、活動の軸にはならないかな……。

実は、活動の軸にする考え方はほぼ決まっていて、あと少しで腑に落ちるような気がしていてこんな思考をめぐらしてきました。

学習する組織のディシプリン

それは『学習する組織 システム思考で未来を創造する』に出てくる5つのディシプリン。

その中でも特に自己マスタリーを軸に内発的動機づけを引き出すアプローチを試したい。

最後の課題は「ビジョン」をどう定義するか……

長くなったし、ここからまた長くなりそうなので、続きは次回に。

▼追記:その2はこちら▼


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