ブログ1本にオリジナリティなんて現れない(ことが多い)


先日書いたnoteが、なかなかの反響をいただいた。(当私比)

洗練された素晴らしいものを目指して書けなくなるんじゃなくて、うどんでも茹でながら雑に書いてみよう。

みたいな事を述べていた。
(気になってくださった方はこちら↓)


スキを1つでももらえたら嬉しいよなぁ。
仮に今回書いた文章に1つもスキをもらえなくても、3本書いたうちの1本にたった1つスキがもらえようものなら、それで十分嬉しいよなぁ。

このくらい、期待感を下げに下げて後悔することができたので、結果として公開後2週間たった今60人もの人に好いていただけていることは、夜中に発狂したくなるほどに嬉しい。
好いたか否かに関わらず読んでくださった方、
本当にありがとうございます。


しかし、ここで突如として仇敵が現れる。
「奢り」だ。

一度多くの人から反響をいただき、その味を知ってしまった脳みそは、次のそれを求める。

2週間たった今、あの時に比べて特段思考が深く鋭くなったわけでもなければ、読んでくださる方に対するサービス精神が醸成されたわけでもない。

けれども、脳みそはもう一度あの奇跡体験を求めてしまう。

「偶然に起きてくれないかなぁ」くらいの楽観なのであればかわいいものだけれど、彼は狙ってそれを出そうとする。
なんとおこがましいことか。

あーでもない、こーでもない、
と思いだしたものを書き出し始めては、
日の目を見ない下書きを量産する。

そうじゃない、もっと雑に楽に書きたいんだ。
と思って書き始めたのがこの文章。

今日はとうもろこしを茹でながら書き始めた。

別に雑に書かなかきゃいけないわけでも、
駄文を何でもかんでも公開しなければいけないわけでもないのだけれど、

書きたいのに、読んでほしいのに、
変なハードルのせいでそれができないのはストレスだ。

だから雑にぼちぼち書いてみる。
(こういう時「雑にぼちぼちに囚われすぎるのは云々カンヌン」的なことを考えて、頭がぐるぐるするタイプです。アホ。)

やれやれ。

やっと本題

この1週間ほど、書こうとして取り下げ、を繰り返している間考えていたことがある。

note1本でオリジナリティを表すことなど不可能なのではないか?

せいぜい1000〜2000字程度の文章一本で
自分らしさを出したり、他にないものを表現することはほぼ不可能なのでは。

今現在noteで数万フォロワーを抱えている、
あの人やあの人は、たった1本の文章で圧倒的支持を集めたわけではない(ことが多いと思う)。

人気を集めるエッセイストの方々も、
1本のエッセイで満足いくまで自分を表現しきることは難しいと思う。

人間そんなにわかりやすいものではない。

(もちろん短歌一首に濃ゆい自分を表現する人や、短編一本に自分らしさを詰め込む小説家もいるわけだけれど。)

このnoteという媒体で、
何かしら自分の考え方を、言葉を、表現したいと思っていた。

間違って伝わって欲しくない、
より深く知ってほしい。

そういう気持ちがあーでもない、こーでもない、と大量の下書きを生み出す。
(繰り返すと、本当にそれ自体が悪いことだと思っていないし、それが自分にとってもしっくりくる時期がそのうちあるかもしれないと思っている。)

けどまあ、
ちぐはぐな駄文を積み重ねたり、
この前「犬が好きだ」と言ったかと思えば、
今度は「犬はやっぱり苦手で本当は猫が好きだ」とゆうようなことがあってもいいと思う。

ブログ1本で全てを伝えるんじゃなくて、
うじうじごにょごにょにつきあってくださる方々と、薄く長い時間をともにしながら、少しずつ伝わってほしいと思う。

あかん、書いてて、「ずいぶんわがままなお願いをしてるんちゃうか」と思えてきた。

堂々巡りになりそう。
今日はこの辺で失礼します。

ぼちぼちつきあってくださった方ありがとうございました。

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