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音楽に縁遠い人生だったはずなのに、気づいたら1か月で13曲も作ってた

幼少の頃、僕の実家には音楽の文化がほとんどなく、親が観ているテレビからたまに流れてくる音楽番組の曲か、自分でプレイしているゲームのBGMが少し耳に残る程度でした。

よほど流行した曲以外は「みんなが知っているあの曲」を知らないし、「あのバンドやグループが再結成」というニュースに知り合いが沸き立っているのを見ると不思議に思い、作曲や演奏をしている人は自分とは全然関係のない存在だと感じていました。カラオケも付き合い以外で行ったことがありません。

音楽の授業は面白くなかったし、楽器の音色は区別できないし、楽譜も読めなければ音階も分かりません。長らく和音は和風の音だと思っていましたし、いったい脳味噌のどこからメロディなるものが生まれ出てくるのか想像もつきませんでした。

とにかく音楽とは縁遠い人生。それは音楽を求めているのに得られないという感覚ではなく、音楽を必要だと感じない、音楽を聴くことが日常にないという感覚です。

そんな僕が1か月で13曲も曲を作り、いまもさらに作り続けています。楽しくてしょうがなく、仕事が終わって8時間も作業していることがあります。

ああでもないこうでもないと唸りながら音を鳴らしていると、ふと閃く瞬間が訪れ、自分の曲ができあがるわけです。

自分の曲! なんてすばらしい響きでしょう。

その直接的なきっかけとなったのは、clusterというメタバースプラットフォームでの人との出会いです。しかし、よくよく振り返ってみるとそこに至るまでの――いわば「自分に音楽は必要ない」という思い込み=呪いを解くまでの過程がありました。

今回はちょっとだけ自分と音楽の関わりを振り返って、実はそんなに音楽と縁遠くはなかったこと、解呪に至って作曲にはまっていることを書いていきます。

ゲーム音楽が好きだったのかも

音楽に縁遠かったというのは自分がそう思っていただけで、幼少期からゲーム音楽にけっこう触れていました。

ゲームとは非常に縁が強く、ゲームなくしてこの人生もありません。最初の出会いはファミコンで、父親に最新のゲーム機だと騙されて譲り受けました。ソフトはいとこが持っていたものと合わせて200本くらいあり、一生遊んでいた記憶があります。

ゲーム音楽を明確に意識するようになったのは『ファイナルファンタジーVI』をプレイしてからです(スーファミもまた最新ゲーム機だと騙されて買ってもらいました)。FF6は群像劇であり、数十人のキャラクター全員にそれぞれ固有のテーマ曲が用意されています。

FFはリメイクや新シリーズで過去の曲が登場することもあり、いまでも『決戦』や『妖星乱舞』は人気曲ですね。僕の一押しは、ダリルの墓でセッツァーが過去を乗り越え、仲間のために再び飛空艇で大空に飛び立つシーンに奏でられる『仲間を求めて』です。

ほかにもいろいろと思い出せる曲はありますが、印象深いのはDEENの『夢であるように』です。これは『テイルズ オブ デスティニー』の主題歌で、イントロムービーと同時に流れるんですよね。テイルズシリーズはゲームに(歌詞のある)主題歌を最初期に導入したことで有名かもしれません。

当時の僕は何かしらの方法で曲を買う・手に入れるという発想がなかったので、何度もPS2のリセットボタンを押してはこの曲を聴いていました(そもそもDEENも知りませんでしたが)。

こうして振り返ると日常的に音楽に触れていましたが、どちらかというと音楽よりゲームの範疇だったので、自分が音楽を聴いているという自覚はそれほどなかったようです(友達とゲーム音楽について話すことは一度もなかったですし、まさかゲーム内の曲に名前がついているなんて露ほども思いませんでした。そのことを知るのと、ほかにもゲーム音楽を好きな人がいるんだと知るのはニコニコ動画でです)。

ニコニコ動画で音MADと東方楽曲にはまる

古のニコニコ動画を支えたコンテンツの一端には、間違いなく音MADがありました。最近はニコニコ動画をそんなに観ていないのでトレンドは知りませんが、かつてよりは音MADは少なくなった気がします(と思いきや、僕の脳裏にはなぜか『コネクト』が流れているんですが、なんででしょうねぇ)。

僕も音MADが好きで、いまも懐かしの作品を視聴しています。『決戦!サルーイン』の音MADでとても口外しづらい人気作品がありますが、ああいうのもけっこう好きです(宗教には興味ありません)。

というように、音MADのベース曲にはゲーム音楽が使われることが多々あります。そこでゲーム音楽にも曲名があることを知り、みんなが当たり前のようにその曲名で各曲を認識しているのに驚きました。大好きなあの曲は『悠久の風』といい、あるいは『風の憧憬』とか『とげとげタルめいろ』とか『Last Battle -T260G-』とか。

そして、音MADの文脈で外せないのが東方楽曲。ニコニコ動画といえば東方楽曲くらいに盛り上がった時代がありました。僕もその波に飲まれたわけですが、この流れを見るに明らかにこの時期から音楽と急接近しています。

しかし、このことをなかなか音楽との邂逅と認識できなかったのは、僕が好きな曲がすべてメインストリーム、あるいはメインカルチャーと言ってもいいかもしれませんが、テレビ番組から聴こえてくる曲ではなかったからだと思います(音MADが好きだからね……)。

知識や経験がないがゆえに、音楽文化といえばJ-POP的な、超人気アーティスト的な、誰もがカラオケで歌って共有できる的な、そんなイメージを持っていたんでしょう。

リフレク&ボルテとの出会い

さらに、その後に出会ったのがKONAMIの音ゲー『REFLEC BEAT』と『SOUND VOLTEX』でした。meet-meといういまは亡きメタバースで出会った友達が遊んでいたのを知って、その日にラウンドワンに行ったことを覚えています。

音ゲーの、特にBEMANIの曲はJ-POPよりはゲーム音楽に近い印象がありますが、それは多くが歌詞のないインストゥルメンタルの曲だからでしょう。日本において、J-POPはテレビ番組やドラマとのタイアップが主流で、カラオケで歌われることなどを想定してたのか、歌詞がある曲がほとんどでした。

翻って、ゲームやインターネット的なことはサブカルチャーに収まり、僕自身もその気配を受け取りながらニコニコ動画や音ゲーを楽しんでいました。

ところで、ニコニコ動画と音ゲーといえば触れておかないといけないのがボカロです。ですが、僕はあまり馴染めませんでした。好きな曲はボルテにも収録された『モザイクロール』などいくつかありますが。

ボカロは歌声を楽器として音楽に取り入れた画期的なツールであり、それがいまやメインストリームに躍り出ようとしている(ないし躍り出た)のを見るに、「誰でも歌えること」は音楽が共感され共有されるためにとても重要なのかもしれません(人間が歌えない曲もありますが、あくまでボカロ曲の一般論として)。

ニコニコ動画、音ゲー、ボカロ、さらに東方楽曲は相互に絡み合って発展を遂げていきますが、一方で(音ゲーを除く)ゲーム音楽はゲームを飛び出して二次利用されることは少ない印象があります(スクエニが音ゲーを出していた……?)。しかしながら、いまやゲームはメインカルチャーとなったので、ゲーム音楽もまたメインカルチャーの音楽だと言っても間違いではないでしょう。

初めてライブとクラブイベントに

実はそれなりに音楽がそばにあった人生だったとはいえ、日常的に音楽を聴くことはいまもあまりなく、かといって非日常的に音楽を聴くわけでもなく、要はゲームをしているか、ゲームセンターにいるか、ニコニコ動画を観ているときだけ音楽と接していました。

ライブとかコンサートとかクラブイベントはまた全然違う次元のことで、むしろこっちの文化圏のほうが縁遠かったと言えます。が、それを突破したのがBEMANIライブとテクノうどんです。

BEMANIライブはその名のとおり、BEMANIシリーズで使われている曲をコンポーザーがDJとなって回すイベントで、いまも開催されています。初めてBEMANIライブに行ったときは豊洲PITで3時間立ちっぱなし腕振りっぱなしで死ぬほど疲れました(いまは4時間踊れます)。

で、テクノうどんって? "なぜか音楽が鳴っている"会場でうどんを踏むイベントです。受付で生地をもらい、適当に踏んでコシを出したらゆがいてもらって食べるんですよ。

これは深夜に音楽を流してダンスをする(クラブを営業したりイベントを提供したりする)には営業許可が必要だとする風営法の規制に対する抗議から始まったそうです。東京に来たばっかりの頃、ふとテクノうどんのニュースを目にして行ってみたんですね。これが初めて体験したクラブイベントでした。

テクノうどんはこの記事の流れからは突発的なものに見えますが、実際に突発的でなんで行こうと思ったのか覚えていません。ただ、これをきっかけにライブやクラブイベントにも少しずつ慣れていきました。

そして数年後、DJイベントを主催する

ちょっと間が開きますが、2020年末にclusterでDJイベントを開催しました。DJは友達がしてくれましたが、よもや自分がそういうことをするとは思っていなかったので、人生とは人との出会いでどうにでもなりますね。

しかもその後の2021年前半、自分でもDJをやりたいと思って何回も開催することになるんですから驚きです。幼少期の音楽文化との疎遠さは、ライブ開催に至って完全になくなりました。

clusterで開催したDJイベントについては何本も記事を書いてあるので、よかったらご賞味ください。

DJをやるようになったのはいいものの、1つだけ気後れしていることがありました。自分で曲を作っていないことです。つまり、DJをやるにあたり、誰かが作ってくれた曲をお借りするしかないということですね。

DJの誰もが自分でも曲を作っているわけではないと思いますし、そもそもDJという役割が曲作りではなく場作りに重きがあるので、気にしていない人もいると思います。しかし、僕はどうしても作品をお借りしているという意識が強く、なんとなしに申し訳なさがありました(インターネット上、メタバース上での著作権の問題もあります)。

でも、本当につい先日まで、自分には音楽のセンスがない、ましてや曲を作るなんて絶対に無理だと思っていました。おそらくこのあとの人生で自分が曲を作ることはないだろう、というくらいに。

本当は音楽に縁遠くはなかったけれど、それでも幼少期の家庭の記憶が呪いとして居座り続け、そう思い込んでいました。

その翌年、突然作曲し始める

現在、僕は4月末から作曲を始めて、習作を除いて13曲を作りました。ビビる。マジか。

もちろんDTMで、かなり便利なツールを使っています。ただ、いまだ専門用語はまったく知りませんし、楽譜も読めません。CとかEとか言われても、それが鍵盤のどれなのかぱっと分かりません。それでも曲を作れてしまうなんて、現代のソフトウェアの発展はとてつもないものがありますね。

作曲を始めたきっかけは、clusterで友達が「作曲してみたい」と言い続けているのに一向に始めないのにイラついて、「じゃあ一緒に作って発表会をしよう」と持ちかけたことです(僕はやりたいと言いながら全然やり始めない「やりたい病」がたいへん嫌いです)。

たまたま近くに作曲経験のある友達もいて、コード進行について教わり、さっそく作り始めました。計5人が参加した発表会は無事に終わったんですが、そのあともいい感じの曲を作りたくて続けています。

僕はDJをやるときに流しているMakinaというジャンルが好きなので、そういう曲をもっと作りたいと思っていますが、自分の好きな音楽を自分の手で作り出せるのはなんというか、感動しかありません。やばい。

ゼロから始めて1か月で学んだすべてを詰め込んだ1曲があるので、よかったら聴いてみてください。

いま、13曲作ったことで自作曲だけで30分のライブができるようになりました。ちょうど6月末に機会をいただけそうなので楽しみですが、今後もDJをやることを念頭に曲を作っていきたいですね。

作曲を始めるにあたり、一緒に自作曲発表会に参加してくれた友達から言われた印象深い言葉があります。それは「好きな曲があるんなら音楽のセンスがあるってことですよ」という、自分から発表会という発破をかけたのにまるで自信がないと嘆いていたところにもらった一言でした。

好きってことはセンスがあるってこと。めちゃくちゃいい言葉ですね。

呪いはいつか解かれる、思わぬ形で

自分を束縛し拘束する考えや認識。これを僕は呪いと表現しています。多くの人が、自分の人生においてさまざまな呪いを持っているんじゃないでしょうか。

解呪しようともがく人もいれば、諦めて呪いに従う人もいます。でも、実はその呪いはたいしたことがない場合も少なくありません。幼少期の家庭環境や友人関係が原因で生じる呪いがほとんどだと思いますが、いまの自分がなぜその呪いに人生を左右されなければならないのかと考えると、ちょっと馬鹿馬鹿しくなることもあるかもしれません。

解呪の方法はいくつかあります。僕の音楽の呪いは人との出会いで解かれました。他者は自分にはない欲望を抱いているので、その欲望に触れることで大きな力を得ることができるわけです。だから、何か解呪したいなら、よき出会いを得ようとすることが大事ですね。悪しき出会いになりそうなら早めに退散しないといけませんが。

ということで、僕が作曲に至るまでの人生振り返りでした。あなたが思い込んでいる「絶対無理なこと」も、少し踏み出してやってみたら、意外と楽しくて続けられるかもしれませんね。

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