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なぜゲームの社会的地位向上のためにeスポーツを待たなくてはならなかったのか

広告、マーケティング、ブランド、教育、国体、地方創生、企業間交流、スポーツ、福祉、コミュニケーション、AI開発、等々。

これらはいずれも「eスポーツ」が何らかの価値をもたらしうる領域ということで多くの取り組みが進展しているようだが、はっきり言ってすべて「ゲーム」で実現しうるものであるし、現実にゲームが当該の領域に価値をもたらしてきた事例も多々存在する。

にもかかわらず、昨今の報道(特にマスメディア──テレビと新聞)に鑑みると、eスポーツ以前のゲームの時代にはなかったような取り上げ方がなされている。

「高校生がeスポーツ部を~」「eスポーツは若年層に大人気で~」など、ほとんどがポジティブな内容でたいへん喜ばしいのは間違いない。僕が生きてきた数十年間で、マスメディアにこれほどたくさんゲームのポジティブなニュースが踊った時代はない。だが、こうした報道が活発になるために、いったいなぜ「eスポーツ」の登場を待たなければならなかったのか?

逆に言うと、なぜ「eスポーツ」はマスメディアで積極的に報道されるのだろうか。この疑問を解くことは、プロゲーマーやeスポーツ関連企業、eスポーツ団体が口を揃える「ゲームの社会的地位向上」へ繋がる一助となるだろう。

※なおエクスキューズとして、本記事は頭の中を整理する試論として書いているので、具体的な調査をしているわけではない。皆さんの意見も訊きたいところだ。

日経新聞に載らない『DEATH STRANDING』

僕のタイムラインはそのフォロワーの属性上、先日発売された『DEATH STRANDING』の話題で騒がしい。国内の初週販売本数は18万6000本と、およそ13億円ほどの売上になったという(通常版6900円+税で計算)。事前事後の騒がしさのわりには、という感じではあるが、Twitterの雰囲気とは往々にしてそういうものなのだろう。

その話題性や売上には小さくないインパクトがあると思う。テーマやゲームデザインがゲーム業界に与える影響力も計り知れない。しかし、どうやら日経新聞や朝日新聞(のサイト)では報道されなかったようである。マスメディアで扱うほどの公共性がなかったということだろうか。

ちなみに、『ポケットモンスター ソード・シールド』も日経新聞で発売日に報道されたのみで、朝日新聞では6月に報道されただけ。ゲームタイトル単体だと、どうも扱うには「弱い」らしい。

「eスポーツ」はしきりに報道される

ところが、両新聞で「eスポーツ」を検索すると、けっこうな数の記事が引っかかる。

日経新聞に熊本eスポーツ協会が発足したというニュースがあるが、僕の感覚からすれば『DEATH STRANDING』や『ポケットモンスター ソード・シールド』よりもはるかにインパクトの小さい内容である。

朝日新聞にも、熊本市立千原台高校にeスポーツ部が発足したというニュースが掲載されている。これもまた、僕の感覚からすれば非常にインパクトの小さいニュースである。

だが、現実として両新聞に熊本におけるeスポーツの話題が掲載された。いったいなぜ『DEATH STRANDING』は掲載されず、熊本のeスポーツは掲載されたのか?

「eスポーツ」は総称だから該当範囲が広い?

答えの1つとして、eスポーツはさまざまなゲームタイトルが該当するため、その分ネタが多く話題になりやすいと考えることができる。

しかし、(すでに紹介した記事から明らかなように)そこは焦点ではない。実際、『ポケモンGO』や『ドラゴンクエストウォーク』はいくつもニュースが掲載されているからだ。

だとすると、検索ワードを「ゲーム」にしてみたらどうか? ビデオゲーム以外も引っかかるので集計がめんどくさすぎるが、印象としてはそこまで多くの記事があるわけではない。というよりも、ゲーム自体について報じている記事はほとんどない。かつて『ドラゴンクエストIII』もゲームの面白さではなく発売日の大行列が取り沙汰されたように。

それはeスポーツでも同じだ。どのニュースもeスポーツ自体の価値ではなく、そこに組み合わされた領域が持つ社会性、公共性、一般性が取り上げられているのだ。

マスメディアにとってのゲームの価値

『ポケモンGO』のニュースにしても、たいていそこに宿る公共性が主たるテーマとなっている。だから、『ポケモンGO』がいかに面白いゲームであるかはマスメディアの関心事ではない。だから、KONAMIを去って自分の会社を作った小島秀夫が送り出す待望の新作、『DEATH STRANDING』によってゲームの常識が一新される、といった文脈にマスメディアは興味を持たない。そこに公共性はない(らしい)。

それは、各ゲームタイトルが持つ固有の価値には(ほとんどの場合)公共性がないということでもある。ゆえに、ゲーム脳やゲーム障害、ゲーム依存症といった公共性のあるテーマばかりがマスメディアで取り上げられる。というかそもそも、マスメディアは「公共性のある=日本国民全員が知るべき」テーマを取り上げる媒体だ。

『ポケモンGO』が先進国で社会問題になっている肥満や運動不足の対策になるのであれば、ここには公共性がある。あるいは、地域活性化に寄与するのであれば、そこにも公共性がある。ゲームが盛り上がらないとその貢献も発揮されないが、マスメディアにとってゲームが盛り上がる最たる要因となる「面白さ」は明らかにする必要がない。

ゲームが面白いという根本的な価値を知りたいのはゲーム好きだけなので、ゲームやITなどを専門とするセグメントメディアが伝えてそのユーザーに届けば充分である。

言うまでもなく、eスポーツにも「若者が集まる」「地方創生に役立つ」といった二次的な価値の前に、それ自体の根本的な価値が存在する。それを僕は近いうちに改めて言語化したいと思っているが、ここでは以前書いた記事を紹介しておくに留める(これの発展版をイメージしている)。

けれども、この根本的な価値はマスメディアにとって価値がない。『LoL』や『オートチェス』がいかに面白いかは関心事ではないのだ。このことに対してゲーマーやeスポーツを愛する人は戸惑うかもしれないが、それでもeスポーツには外部と接続して公共性を宿す力があるらしく、マスメディアにとって報道しやすいようだ。

なぜゲームは外部と接続しなかったのか

冒頭で書いたように、eスポーツはさまざまな領域と接続され、その価値が語られる。ゲームにもその風潮がなかったわけではないし、『Minecraft』が教育に与えている影響たるやというところだが、eスポーツに比して見ればニュースは明らかに少ない。いま熊本で誰かがeスポーツ部を発足させたことはニュースになっているが、10年以上前に大阪で誰かが『.hack//G.U.』をプレイして大号泣したことはニュースにならなかった。前者には公共性があり、後者にはない。

結局のところ、ゲームが低い社会的地位に甘んじてきたのは、ポジティブな公共性を纏えずマスメディアに報道されなかったことが最大の要因であったはずだ。では、なぜゲームはゲーム業界の外側──つまり外部=社会と接続し、ポジティブな公共性をもっと宿せなかったのか? 

繰り返すように、教育しかり、ゲームは外部と繋がり、その公共性が報道されてはきた。しかし、その多くはゲーム障害や射幸性、引きこもりなどネガティブな面だったのは否めない。そうした報道に対してゲームの面白さや新規性を語り返したところで、相手にされないのは明白だ。ゲームが面白いことは個人の関心事であって、社会的な関心事ではない。ゲーム障害に対しては、ポジティブな公共性を返さなくてはならなかった。

おそらくゲーム業界やゲームメディア、ゲーマーはそれをあまりしてこなかった。ゲーム会社はMMOに夢中になる引きこもりに対して何か対策したのか? ゲーム脳が取り沙汰されたとき、ゲームの悪影響や好影響に関して調査・研究をしたのだろうか? ゲームセンターが不良のたまり場だと指摘されたときは? 外で遊ばず家にこもるからよくないと難癖をつけられたときは? ガチャが射幸心を煽り依存性を高めると問題視されたときは?

関係者が対策を講じポジティブな公共性を訴えたのかもしれない。しかし、現状を見るに、充分ではなかったようだ。ゲームが新産業として雇用を生み、人生の救いになり、人とのよき出会いを生むという価値を訴えることもあっただろうが、声は内部に留まってしまっていた(これらをゲーム業界に向けて伝えても、公共性は宿らない)。

eスポーツが宿しうるポジティブな公共性

別にeスポーツがゲームの社会的地位を向上させるに違いないとは言わない。けれども明らかに、eスポーツはポジティブな公共性を報道されることが多い。

朝日新聞に16歳ゲーマーの記事があったが、高校生がただゲームをしているだけなら絶対に取り上げられないのに、「アジアNo.1の技」という公共性があるだけで極めてポジティブに報道される。eスポーツが外部と接続して宿しうる公共性は、どうやらとてつもなく強い。

これには、eスポーツがスポーツとの類推でその公共性を拝借している面が多大にあるだろう。虎の威を借るとは言わずとも、共通点があるのは間違いない。

また、eスポーツ関係者がこれまでの反省を活かしてゲームのポジティブな面を知ってもらうために活動していることも理由かもしれない。彼らがeスポーツを語るとき、ただeスポーツタイトルの面白さを説くだけではなく、マスメディア向けに「若者に人気」「教育に活かせる」といった公共性のある価値をわざわざ伝えている(前者が少なすぎると思うことはある)。

ゲームの社会的地位を向上させたいなら、「社会=公共」にポジティブなイメージを抱いてもらわなければならない。なので、世界を舞台に戦うプロゲーマーがいかにゲームに救われたかを語ることは、かなり強くポジティブな公共性を宿すことになるだろう。ゲーマーほど伝えたい「eスポーツタイトル自体の面白さ」を広く伝えるためにも、まずは外部と接続して公共性を獲得する必要がある(「世界を舞台に戦う」とか「教育現場で」がそうだ)。

当然、巨大なゲーム産業の中で価値観も完結していればいいという考えもある。なにせ、日本のゲーム人口は4735万人だ。ポジティブな公共性など訴えなくても、そのうちゲーム自体の面白さが公共性のある価値になるだろう。

新しい言葉が必要だった

ゲームが公共性から離れたところにあったわけではないし、外部と接続されていなかったわけでもない。だが、そこで生じる価値以上にネガティブな価値が報道されすぎた。だからこそ、ゲームの社会的地位を向上させるには「ゲーム」ではない、「eスポーツ」という新しい言葉が必要だったのだ。

では、ゲームの社会的地位が向上するとどんないいことがあるのか? ゲームをプレイすることで後ろ指を差されなくなるし、eスポーツのプレイヤーならより多くの人や企業に応援してもらえるようになる。要するに、いま以上に多くの人がゲームで承認欲求を満たし、ゲームで食べて生きていける可能性が広がる。そのほか諸々。

それはゲーマーにとって価値あることだろうし、社会にとっても有益なことだろう。

※余談。僕自身はいままであまりゲーミング迫害を受けたことがないので、社会的地位向上を声高に言う人にそれほど共感を覚えない(この記事で書いたように)。だが、いろいろ聞くと、ゲームが原因で親との関係が悪くなるなどゲームの社会的地位の低さに起因する問題に見舞われた人がけっこういるようだ。であれば、ゲームの社会的地位が高くて困ることはないだろう。

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ようこそ、eスポーツブランド研究家です。主に日本のeスポーツ業界のあれこれをマーケティングから考察・分析しています。 「happy esports」の詳細と連絡先は↓のプロフィールをどうぞ。「焚き火を囲って」はジャンル不定のコラムで、「創作の隘路」はジャンル不定の創作集です。

コメント1件

昨今の一般メディアのeスポーツ押しは仕掛け人がいてバックに電通がいるからという身もふたもない考察をしている。
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