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久々に追加コンテンツにも夢中になった『Inscryption』と、ゲームに体験させられることのだるさ

巷で大絶賛のローグライクなカードゲームにしてサイコロジカルホラーと呼ばれている『Inscryption』をクリアしました。

本作はSteamのゲームでありながら、ゲーム内に散りばめられた暗号が現実世界とも連動するデザインになっており(いわゆるARG、代替現実ゲーム)、2021年10月頃に多くのゲーマーを駆り出させ楽しませてくれた作品です。

その出来と比ぶべくもなく、今年の僕のゲーム遍歴はあまり芳しくありませんでした。プレイした本数は極めて少なく、熱中したと言えるゲームは数本。そんな貧相な体験の中ではありますが、『Inscryption』は最も楽しんだ1本となりました。

その魅力やゲームデザインの秀逸さについては下掲の記事を読んでいただけると幸いです。きっとあなたも本作をプレイしたくなることでしょう! この記事では本作を通して僕がようやく気づいた、ゲームに体験させられることのだるさについて書いていきます。

体験させられるゲームをプレイできなくなって

先ほど「プレイした本数は極めて少なく、熱中したと言えるゲームは数本」と書きましたが、これらを除いた「冒頭の数時間だけ遊んだゲーム」は何本もあります。

でも、そのいずれも途中でやめてしまいました。というのは、ゲーム中のキャラクターやナレーションが話す時間やムービーが長く、それが退屈でプレイを継続できなくなったからです。自分で操作できる時間が長かろうが短かろうが、操作できない時間がそれなりにあるというだけでだるく感じるようになってきたという。

例を挙げると、『古剣奇譚』はプレイを開始するとムービーが始まり、キャラクターたちがなにやら事を起こし始めるんですが、そのムービーを観ているときにもう飽きていたんですよね(本作の評価は非常に高く、not for meだっただけです)。

逆に、『Timberborn』はプレイを開始すると何の説明もなくプレイアブルになり、自分で操作しテキストを読みながらどんなゲームかを学び、遊んでいくことになります。この過程はたいへん楽しく、飽きることなくのめり込みました。

『古剣奇譚』はストーリーメインのアクションゲームで、『Timberborn』はストーリーのない街建設ゲームなのでジャンルがまったく異なるんですが、それゆえに僕の近年の嗜好を端的に表してくれるゲームでした。

ここで、プレイヤーがゲームに体験させられる形式を「体験させられるゲーム」と呼んでおきましょう(僕にとっての『古剣奇譚』)。プレイヤーがゲームを体験するという形式は「体験するゲーム」と呼びます(僕にとっての『Timberborn』)。

主語はゲームではなくプレイヤー。また、重要なのは体験するゲームと体験させられるゲームの違いはあくまで主観的ということです。なので、『古剣奇譚』を体験するゲームと感じる人もいるでしょう(僕も同作で体験する時間を感じた部分は多々ありますが、体験させられている時間が耐えられなかったということ)。

とにかく、どうやら僕は体験させられるゲームを退屈に感じるようになってきたらしい。

体験するゲームと体験させられるゲームの違い

思い返すと、僕はRPGの『オクトパストラベラー』も途中でやめてしまっています。ゲーム自体は非常に面白く、久しぶりに楽しめていたんですが、キャラクター同士の会話の最中、キャラクターが頷きなどのちょっとしたアクションをする一瞬の「間」にどんどん耐えがたくなっていったからです。

それまで自分のペースでテキストを読み、軽快にボタンを押してページを送っていたのにもかかわらず、その「間」はスキップできずに待つしかなかったことが原因です。

実は今年、『オクトパストラベラー』と同じくグラフィックや作風をスーパーファミコン時代のRPGに似せた『EvaliceSaga』を改めてプレイしたんですが、こちらは全ボス撃破するまで遊び尽くしました。「間」によってプレイを妨げられることがなかったからです。

このことから分かるように、体験するゲームと体験させられるゲームの違いはゲーム全体を通しての操作量や操作の自由さの多寡ではなく、あるいはキャラクターやストーリーがメインかどうかでもなく、自分から動かしたり読んだりできない受動的な時間の多寡だと考えられます。その多寡の閾値は人によって異なるので、主観的ということです。

以前『Medieval Dynasty』を操作不能で画面を眺めるだけの時間が多いゲームと称して記事を書きましたが、この暇な時間を含め本作は僕には「体験するゲーム」として感じられていました。おそらく、その時間が自分の望む成果物をクラフトするために必要不可欠な時間だったからではないでしょうか(とはいえ、あまりにも多いので読書や筋トレをしていましたが)。

体験する・体験させられる、自分・他者の物語

『Inscryption』は僕にとってもちろん体験するゲームです。提示するストーリーの面白さも突き抜けています。

そのストーリーは単にムービーやテキストで明示されるのではなく、プレイヤーが推理して読み解いていかなければならず、けっして受動的に展開されるものではありません。ARGの部分については言うまでもなく、プレイヤーたちが調査・探索することでみずから体験していました。

こんなふうに言うと、映画のようなゲームやムービー多めのゲームは楽しめないのではないかと思われるかもしれません。実際にはそんなことはなく、重要なのはそのゲームを僕自身が体験するゲームとして感じてるかどうかに左右されます。繰り返すように、「体験する・体験させられる」は主観的なのです。

なので、例えばプレイヤーがクラウドとして彼の物語を追体験するような他者の物語でも、それが体験するゲームとして感じられれば楽しめます。一方で、名もなきドヴァキンとしてゲームの世界に入り込むような(ほぼ)自分の物語でも、体験させられるゲームとして感じられれば楽しめません。

さて、新たなる概念が出てきました。「自分の物語」と、その対になる「他者の物語」です。自分の物語は自分が話の主役であることを意味し、他者の物語は自分以外の誰か(キャラクターや著名人など)が話の主役であることを意味します。「物語」は体験とほぼ同義ですが、このあと「体験する物語」という表現を使うので、同語重複を避けて物語にしておきます。

これらと体験する・体験させられるゲームは意味が違います。体験するゲームでも他者の物語である可能性があり、体験させられるゲームでも自分の物語である可能性があります。四象限で考えると分かりやすい。

さらに言うと、「自分・他者」は客観的です。客観的なので、どのゲームを指しても「自分の物語」か「他者の物語」かは誰でも指摘できます。というより、ほぼすべてのゲームは「他者の物語」と「他者を自分のように見せかける物語」のどちらかです。

RPGなどはその名のとおり「他者を自分のように見せかける物語」で、これは「ほぼ自分の物語」と呼んでも差し支えありません。

例外として『ポケモンGO』のようなゲームっぽいサービスがありますが、これをゲームと呼んでいいなら『ポケモンGO』は珍しくも典型的な自分の物語と言えます。トランプを使うテキサスホールデムなどもそうですね。

『Inscryption』はプレイヤーがラッキー・カーダーを追体験する他者の物語です(最初はほぼ自分の物語であるかのように展開されますが)。そして、僕にとってはこれが体験するゲームとして感じられたということです。

映画のようなゲームでQTEを組み込むのは、おそらく体験するゲームを意図してのことでしょう。しかし、それがかえって体験させられるゲームであることを強調するケースが多いのは皮肉ですね。

要注意ポイントとして、体験する・体験させられる、自分・他者の物語といった概念は、ゲーム自体が持つ魅力とはそれほど関係ありません。体験させられるゲームでも面白く感じることはありますが、そうなる確率が僕にとっては相対的に低いということです。加えて、そういうゲームほど実況プレイを観ることが多いですね。

映画を早送りで観て、clusterで無為の時間を過ごす

ところで、僕は10月末から1日1本映画を観ています。なんとなく始めたんですが、昨今のトレンドに漏れずNetflixでは1.5倍で吹替+字幕にしています。

というのは、映像作品は「体験させられる他者の物語」で、この形式を心地よく面白く感じる人も多いと思いますが、僕にとっては観たいし好きなのに観るのが非常にしんどいメディアなんですね。それを1.5倍(+字幕も追加)で観るのは「体験させられる」を「体験する」に変換する儀式のようなものです。「体験する他者の物語」は面白いことが多いんです。

小説や漫画など自分のペースで体験できるメディアは全然大丈夫なので、やはり僕はもう体験させられることに退屈する心になってしまったようです(でも、圧倒的に面白い物語はすべてを超越します。面白さは絶対正義)。

人によっては他者の物語にまったく無関心な場合もあるでしょう。対戦ゲームが以前にも増して流行するようになったのは、それが根っからの自分の物語だからかもしれません。

僕はメタバースのclusterで過ごす時間もだんだん増えています。自分で作ったワールドで1人何もせず、あるいは数人がいるのに誰も喋らずじっとしていることもあります。

でも、そんな無為の時間であっても「体験する自分の物語」なので、無駄で退屈だとはあまり思いません。『オクトパストラベラー』でキャラクターが頷く一瞬の「間」に退屈するのにもかかわらず。言わばこれが「体験させられる他者の物語」と「体験する自分の物語」の大きな違いです。

clusterにいても、誰かが一方的に自分の話をしているときは退屈です(体験させられる他者の物語)。しかし、その人が質問を投げかけて聞き手の話を引き出しながら自分の話をしているときは楽しく感じます(体験する他者の物語)。

clusterの知り合いで『Apex Legends』が大好きな高校生がいるんですが、彼もよく僕のワールドに来ます。客観的な面白さからすれば『Apex Legends』が圧勝するはずなのに、プレイする時間を削ってでもclusterに来るあたり、なかなか妙に察せられるものがあります。

マーケティングの文脈でも「若年層はもはや消費者ではなく表現者である」といった言説を見かけるようになりました(『推しエコノミー』(中山淳雄)など参照)。これは(主としてSNSで何かしらを)表現することで万物を自分の物語にしてしまうという流れであり、もはや不可逆となる価値観の移行です。

顧客中心主義やユーザー主体という言葉はビジネスの常識になりました。商品紹介や広告では企業と商品が主語になる時代はとうに過ぎ去り、「あなたが○○という課題を解決できる」という形式が一般的に。そして、企業はいかに商品をユーザーに表現してもらうかで試行錯誤を続けています。

メタバースが有望視されるのは、まさしく「体験する自分の物語」を容易に生み出せるからです。ゆえに、ここに"分かっていない"企業が参入して「体験させられる物語」が介入してくると、たいへん面白くない方向に進んでしまう可能性があります。

企業がメタバースをバーチャル店舗や広告媒体として活用するとき、はたして企業主体でユーザーが「体験させられる物語」ではなくユーザー主体の「体験する物語」をデザインできる・してくれるのでしょうか。その点を指摘している記事を紹介しておきます。

いきなり自分の物語が始まる『Inscryption』

『Inscryption』が秀逸なのは、初めて"コンティニュー"すると「自分の物語」が始まるところです。特に説明もなくいきなりローグライクなカードゲームをプレイすることになり、それが体験するゲームとしてやたら面白いんですが、そのあとで突如としてラッキー・カーダーの物語だったとプレイヤーは知ることになります。

それはプレイヤーにとってはどう見ても他者の物語でありつつ、そこまで積み上げてきたプレイ時間のせいでほぼ自分の物語になってしまっており、しかも体験させられる作りではなくどんどん体験する・したくなる作りになっていて、かと思えばプレイヤーがカーダーの足跡を追う自分の物語になっていくことに気づき(その先にARG要素がある)、プレイヤーはますます本作の深みにはまっていくことになります。

僕が追加コンテンツのKaycee's Modをコンプリートするまでプレイしたのは、本作を「体験する(ほぼ)自分の物語」として遊べたからであり、プレイヤーとして最も楽しく感じたローグライクカードゲームの部分を追加コンテンツにしてくれたからでした。

Kaycee's Modのチャレンジ全クリア!


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