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Inscryption考察 カードゲーマーにだけ「泣ける」物語の正体


2021年の傑作『Inscryption』はその性質上、ネタバレを固く拒む作品である。

私はRealSoundにて本作のレビューを執筆した時も、あくまで本作が伝えんとする物語の本質について、ほんの示唆にとどめざるを得なかった。これは歯がゆく、何故この作品がわたしたちの胸をこれほど打っているのか、より具体的に論ずる機会をここゲームゼミにて設けようと考えるのは自明であった。

よって本稿において、『Incsryption』の完全なネタバレ前提とした批評と考察を行う。すでに拙稿にて述べた通り『Inscryption』は稀有な名作であり、もしまだプレイされていなければ本稿を読むのは控えていただきたい。

なお、予め断っておくが本稿は『Inscryption』におけるARG要素について深く論じない。私の結論として、ARGは『Inscryption』の優れた側面であるものの、ある理由から本作が伝えんとする哲学とは何ら関係のない脇道である。

故に、私は『Inscryption』の純粋な物語部分のみを論じ、この作品が恐らくビデオゲーム史上、いや文学史上で初めて取り上げた、「カードゲームをプレイする私たち」の生き様を克明に描こうと試みた点にのみ論じていく。

注:本作には『Inscryption』のネタバレがあります


『Inscryption』について我々がまず理解すべきは、本作は様々な「嘘」に満ちた、いじわるな作品だということだ。様々なミスリードによって絶えずプレイヤーの認識を誤魔化し、嘲笑おうとする。

中でもプレイヤーが誤解するのが、「今、誰がプレイしているのか」という視点である。

本作の冒頭、プレイヤーは目の前の暗い影(レジー)に閉鎖された小屋で半ば強制的にカードゲームを強要される。まるで、プレイヤーは自分がゲームの中へ引き込まれたように感じただろう。しかし、実際にはプレイヤーとは別の、独立したある主人公が『Inscryption』をプレイしていて、彼を一人称視点で操作していくという一種のネスティング、入れ子構造にある。つまり『Inscryption』は「ゲームを遊ぶゲーム」なのだ。

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これは本作のディレクター、ダニエル・マリンズが好む構造で、彼の処女作『Pony Island』でも同様にアーケードゲームを遊ぶ何者かを、一人称視点で操作するゲームになっていた。そしてプレイヤーはこの主人公を悪魔の牢獄から解放すると共に、この主人公、つまりプレイヤーに見せかけたプレイヤー以外の誰かとは一体何者なのかを、悪魔バフォメットとの契約により明らかにしていく。

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バフォメットが語るところによれば、主人公は十字軍に従軍した騎士の一人で、イェルサレムの嘆きの壁にて力尽きたという。つまり主人公はプレイヤーと別人どころか似ても似つかなぬ別人であり、13世紀も前に生まれた人間が800年ほど悪魔に支配されていたところを、プレイヤーが救済したのだということになる。

『Inscryption』もこの構造は同様だ。最初、何の気なくゲームを開始すると、自分は真っ暗な部屋の中に閉じ込められており、目の前の、およそ人間かどうかさえ怪しい男にカードゲームを強要される。物語は徹底した一人称視点で、主人公の容姿や特徴も触れられないことから、プレイヤー自身がゲームの中にいるのだと錯覚する。

ところが最終的に目の前の男、レジーを撃破すると、画面が暗転してホームビデオの録画一覧が表示される。今までのゲームプレイはカメラ越しに撮影しているもので、また録画を見れば、このカメラ越しに撮影しているのは「ラッキー・カーダー(The Lucky Carder)」というユーチューバーだったことが明らかになるのだ。そして、最初触れられなかった「ニューゲーム」を通じ、明確にこの「ゲームを遊ぶゲーム」がレトロに強調された第二幕へ突入する。

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このように、ダニエル・マリンズ作品は何度も「ゲームを遊ぶゲーム」を作っている。それも、明らかにプレイヤーが主人公と同一視するようにミスリードする仕掛けをいくつも打っておいて、結局のところ主人公とプレイヤーは別人だったという、ある種、当たり前の結論に物語を導く。

では何故、このようなややこしい物語の展開をダニエル・マリンズは用意しているのだろうか。一体この入れ子構造から、彼は何を伝えんとしているのか。


この入れ子構造を理解する一つの鍵は、ダニエル・マリンズ作品に共通する、メタフィクション要素だと考えている。

例えば、『Pony Island』は主人公は悪魔が作ったアーケードゲームに囚われているため(律儀にも悪魔は「Satantech」というゲーム企業を設立し、この子馬が跳ねるゲームを開発した)、当然普通にプレイしても絶対に「詰む」ような難易度に設計されている。ここにプレイヤーはテクスチャの隙間から弄り回し、グリッチを行うことで意図的にゲームの前提となるルールを書き換え、つまりはチートを行うことで、主人公を勝利に導く。

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また『Inscryption』においても、第一幕で戦うレジーは敗北を認めようとしないため、他のスクライブが封印されたカードや道具を部屋の中から、つまりカードゲームをプレイしていない間に見つけることで勝利できる。その後も、同様に想定されていないような遊び方をすることで、初めて突破できるシーンが何度も登場する。

以上のように、これらの作品では、ただ表面的に提示されたルールに従っている限り攻略ができず、意図的に用意されたルールを壊して初めて道が見えるように作られている。これは正に、ゲームの中に閉じ込められた主人公にはできない、ゲームの外にいるプレイヤーだからこそ可能な攻略方法であり、このゲームデザインには確かに主人公とプレイヤーの境目を曖昧にすることの意味合いはある。

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このメタフィクショナルなアプローチは、皮肉にもゲーム本来の楽しさとは何かを訴えている。遊びは往々に創造的で、時々ゲームデザイナーでさえ思いつかなかった遊び方(バグやグリッチ、裏技など)をプレイヤーは発見する。

批評家、ミハイル・バフチンによれば、遊びは時に破壊的、反逆的な行為(=カーニバル的)である。ゲームクリエイターの顔をしかめるものでさえ、やはり遊びなのだ。『Pony Island』の悪魔は繰り返しプレイヤーを「チーターだ!」と顔を真っ赤にして糾弾するが、それこそ、悪魔にほえ面をかかせてやったのだという作中屈指のカタルシスに繋がっている。

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ただしこの解釈だけで『Inscryption』の魅力を語るのは、少しばかり弱い。何故なら、ルールに沿わず、時にルールを壊してしまう、遊びの「創造性」を楽しむというコンセプトを、厳密には『Pony Island』や『Inscryption』は達成できていないからだ。

つまり、テクスチャの隙間をこじ開けてグリッチを引き起こしたとしても、当然ながらそれはダニエル・マリンズが設計した演出の範囲内にあり、真に創造したわけではない。結局のところ、あたかもプレイヤーの任意でゲームを壊したように錯覚させているが、全てはゲーム演出の中での予定調和であり、むしろ『Sim City』や『Minecraft』の方がよほどこの理想を達成できていると言える。

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Minecraftにおける有名なサーバー、現代のバーチャルソドムこと「2B2T」。チート=破壊を許容しながら絶妙な秩序が成立する、まさにカーニバル。

ただこのメタフィクショナルなゲームデザインもまた、冒頭に紹介した「自分がゲームを遊んでいるようで、実は他人がゲームを遊んでいる様子を追体験していた」というストーリー的な入れ子構造と同じく、実のところ一種のミスリードだ。

ゲームをメタから壊すことそれ自体がダニエル・マリンズ作品の目的ではない。むしろ、「ゲームが壊れているようで実は正常」という、ともすればナンセンスな表現に収まる。


ではダニエル・マリンズは、「主人公がプレイヤーのようで実は別人」「ゲームが壊れているようで実は正常」という遠回しな演出を介して、一体なにを表現したかったのか。

筆者が思うに、彼はすごく実直で、真面目で、不器用な男なのである。故に、彼はある単純な、しかし誰にも理解されなかった物語を伝えんとしていて、そのためにこんなまどろっこしい表現を介していたのだと思う。

その物語とは、ゲーマーでありデュエリストである我々のための文学、誰かと純粋にパッケージ化された「遊び」を共有し、彼らとの間に自分ならではの戦略、財産、感情、情熱をぶつけ合う過程、まさに「カードゲームはこんなにも面白かったんだ」という我々にのみ許された奇跡を、今このゲームの中に再話するためではないか。

申し訳ない。唐突だが、ここで一つ、私の物語を語らせてほしい。恐らくはそれによって、千の言葉よりも端的に『Inscryption』の物語を解説できるはずだから。

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