見出し画像

ドラマ『ウィッチャー』はゲームをプレイするような新しい映像体験をもたらしてくれた

去る12月20日、かの名作『ゲーム・オブ・スローンズ』に匹敵する、あるいは超える大作として期待されていたドラマ『ウィッチャー』がNetflixで配信された。

シーズン1の全8エピソードが一挙に公開され、僕も一気に観終わった。そして不思議なことに、僕はその数時間後にゲームをプレイしたかのごとく続きをプレイしようとしてしまった。

言いかえれば、僕は本作を観て、なぜかゲームをプレイした気になっていたのである。約7、8時間、ただじっと視聴していただけなのに、いったいどうしてそう感じたのか。

本作はもしかしたら映像作品がゲーム作品に極めて近似してきた例ではないか? だとすれば、もっと踏み込んで言うと、視聴者が一切操作することのない映像作品でも場合によってはゲーム作品になりうるのではないか?

ということで、今回は本作の感想に代えて、僕がなぜか抱いた「ゲーム感覚」について考えたい。すでに本作が気になって仕方がない皆さんは、こんな記事を読んでいないでさっさと視聴しよう

※トップ画像は『『ウィッチャー』予告編 - Netflix』から。ゲーム版でゲラルトが使うアードの印が見事に再現されていてかっこいい。話題になったゲラルトの入浴シーンもある。ちなみにドラマ版シーズン1ではまだユニコーン騎乗のラブロマンスシーンは登場しなないが、イェネファーのセクシーシーンはたいへんコミカルで笑ってしまった。

※ゲーム『ウィッチャー3』もSteamで1月3日まで70%オフである。

グラボの重要性を知った『ウィッチャー3』

本作はゲーム『ウィッチャー』シリーズを原作としていて、ゲラルトやイェネファー、シリたち登場人物はゲーム版に寄せられている(ゲーム版にはさらに小説版の原作がある)。

僕は『3』でシリーズを知り、PCでプレイした。しかし、当初どうしてもプレイ中のカクつきがひどく、快適なプレイにはほど遠かった。それもそのはず、適当に買ったPCについていたグラボではとても性能が足りなかったのだ。

それまで『Fallout 3』や『グランド・セフト・オートIV』などはコンソールでプレイしていたし、PCゲームも軽めの作品しかプレイしたことがなかったので、グラボの存在など知りもしなかった。僕は初めて自分でグラボを買った。

結果、85時間ほどプレイして同作をクリア。第1作と第2作に意識が向くのはそれからしばらくしてからだ。

プレイ動画を観た第1作と第2作

最初にシリーズの最新作をプレイすると、UIやシステム周りで劣る前作をプレイするのが億劫になる。そういうとき、僕はすぐにプレイ動画(ゲーム実況動画)を観始める。『ウィッチャー』シリーズも第1作と第2作は購入したものの、プレイ動画を視聴した。

自分でゲームをプレイせず他人がプレイしている様子を視聴する人のことを動画勢と呼ぶが、そのあり方がネガティブに語られるときはだいたい「ゲーム作品は自分がプレイしてこそ価値がある」という価値観にもとづかれている。また、「プレイ動画を視聴するだけだとゲーム作品にお金が費やされない」と指摘されることもある。

一方で、擁護側は「自分でプレイする時間がない、めんどくさい」「プレイ動画で興味を持って購入するかもしれない」と並べ立てる。いずれにせよ、動画勢に賛否はあってもいまや当たり前の行為となっており、その是非を改めて議論するようなテーマでもない(10年前ならまだしも)。ゲーム作品を視聴するのが日常になった現在も、国内外でゲーム市場は成長の一途を辿っている。

操作体験と視聴体験

とはいえ、ゲーム作品を楽しむ手段として(他人のプレイを)視聴するという選択肢が一般化したことは重要だ。ゲーム作品を自分でプレイするのとプレイ動画を視聴するのとでは、体験としては全然違う。

ゲームに関する体験をプレイ体験またはゲーム体験と呼び、ここでは分かりやすくさらに「操作体験」と「視聴体験」に分類しておこう。どんなゲーム作品でも、プレイ体験の内容はこの2つを両極とする軸のどこかに当てはめることができる。

※この記事では「視聴/視聴する」と「視聴体験」は違う意味で使用している。「視聴/視聴する」は経験する行為自体のことで、「視聴体験」は具体的な経験内容のこと。

例えば、アクションゲームの『ウィッチャー3』なら操作体験と視聴体験の割合は8:2くらいだし、対戦ゲームの『どうぶつタワーバトル』なら10:0となる(0と10以外の数字はまったく厳密ではないのでなんとなくのイメージとして掴んでほしい)。

はるか彼方の大昔、『ひぐらしのなく頃に』はゲーム作品かどうかが問われた。なぜなら、プレイヤーは選択肢もなくひたすらクリックしてシーンを進めることしかできなかったからだ。しかし、クリックするという操作があるため(それこそが作品への没入感を高める)、少なくとも同作は操作体験と視聴体験の割合が1:9のゲーム作品だと言える。

もしこの割合が0:10であれば、それはゲーム作品ではなく映像作品と呼ばれる。いや、呼ばれてきた。ここで僕が言いたいことが見えてきたと思う。ドラマ『ウィッチャー』は操作体験と視聴体験の割合が0:10のゲーム作品ではないか、ということだ。

インタラクティブな映像作品

ゲーム作品は通常、操作体験をベースにして語られる。だから、「映画のようなゲーム」は一昔前までその作品を蔑む表現だったし、もしかしたらいまもそうかもしれない。それはゲームがインタラクティブで、プレイヤーの操作によってさまざまな現象が起こるように設計されており、操作体験こそが本質だと考えられていたからだ。

他方、映画(映像作品)は視聴者が何もしなくても勝手に進んでいくのでインタラクティブではまったくなく、視聴体験しかない。「映画のようなゲーム」はゲーム作品なのに操作体験が視聴体験より少ないという皮肉が込められていたわけだ。

だが、近年は映像作品にインタラクティブを持ち込もうとする潮流が生まれつつある。Netflixの『You vs. Wild』がその最たる例である。

同作はサバイバル術に長けたベア・グリルスが秘境を冒険をするリアリティショウで、目の前に選択肢が現れたときに視聴者に「どっちを選ぶ?」と尋ねてくる。視聴者がどちらかを選ぶと、それに応じたストーリーが展開される。基本的には正解ルートがある。

これはノベルゲームの映像版、まさにムービーゲームと言ってもいいかもしれない。『You vs. Wild』は映像作品側から操作体験を織り交ぜようと果敢に試みた作品だ(ただ、僕には面白くなかった)。

同作だけでなく、リアリティショウの中には視聴者の反響や意見によってストーリーが臨機応変に展開される作品も多く存在する。そこには明らかに操作体験が存在するが、そういう作品ははたして映像作品と呼ぶべきか、それともゲーム作品と呼ぶべきか。

僕にはその境界は分からないが、ゲーム作品側と映像作品側の両者がその境界を揺るがしにかかっているのは間違いない。

プレイ動画を観ることには操作体験が含まれる?

さて、そこに登場したのがドラマ『ウィッチャー』だ。本作には『You vs. Wild』のような明確な操作体験は存在しない。はっきりと、操作体験と視聴体験の割合は0:10だと言いきることができる。しかしそれでも、僕は本作を視聴して操作体験を錯覚した。

いったいどういうことなのか? ここで問うべきは、ゲームのプレイ動画を視聴することの操作体験と視聴体験の割合だ。第三者から見ればプレイ動画自体は映像作品であり、ゆえに0:10であることは明白だろう。

けれども、実際に視聴している人からすればどうか。もしかしたら、その人は実際にゲームをプレイしている人に感覚が同化している可能性がある(疑似操作体験?)。

振り返ってみると、僕もそういう感覚を抱いたことがけっこうある。例えば、対戦ゲームないしeスポーツタイトルでうまい人のプレイを観ると、自分もうまくなったかのように錯覚することがある。

それは他人のプレイをあたかも自分の操作体験のように感じているのかもしれない。だとすると、プレイ動画を視聴することは視聴体験だけでなく、割合としてはごくわずかながら操作体験もしていると言っていいのではないだろうか。

誰かが登場人物を操作しているという錯覚

いま、プレイ動画の視聴に操作体験がいくらかでも含まれうるのではと想像した。これが許され、プレイ動画が映像作品であるとしたら、映像作品にも操作体験が含まれておかしくないのでは?

いや、プレイ動画はたしかにゲーム作品ではないが、だからといって映像作品だと断言できるわけではない。むしろ、違うものだと積極的に主張できる。なぜなら、プレイ動画には操作しているプレイヤーが存在するが、映像作品には存在しないからだ。その差は大きい。

実はここにこそ僕の錯覚を説明する要諦がある。そう、僕はドラマ『ウィッチャー』を視聴しているとき、誰かが登場人物を操作していると錯覚し、だからこそプレイ動画を視聴したときのように操作体験を錯覚したのだ。

映像作品で操作体験を錯覚させる条件

プレイ動画と映像作品の違いは明らかで、これらを同種のものとして捉えるのは無理がある。論理的に同種のものだと説明する道はあるかもしれないがたぶん難しい。しかし、上記のように考えると、僕の錯覚について辻褄の合った説明が可能になる。

ただ現実問題として、映像作品の視聴者に操作体験を感覚・錯覚させるのは容易ではないだろう。僕が錯覚してしまったのは、おそらく自分でゲーム『ウィッチャー3』をプレイしていたからこそだと思われる。

ゲーム実況者によるプレイ動画を観ただけだったとしても同じ錯覚をしたかもしれないが、いずれにせよ、僕にとって本作はまさしく最上級の"ゲーム"だったということだ。以上が結論である。

まあもちろん、ゲームをあまりプレイしない人やゲーム動画を観ない人にとっては、本作は単なる映像作品として視聴されるだろう。

動画勢でもそうでなくても

本作は動画勢のために作られたわけではないし、おそらく僕自身も『ウィッチャー3』はプレイしているのでシリーズの完全な動画勢ではない。しかし、本作はあたかもプレイ動画を観る動画勢のように楽しめる作品と言うことはできる。

それがいいか悪いかは分からない。純粋に視聴体験だけを味わう人もいるだろう。けれど、ゲーム版を未プレイでもゲームが好きな人で、あるいは操作なり視聴なりプレイ体験をしている人なら、僕と同じ錯覚を味わってしまう可能性はある。映像作品でありながら操作体験を味わえるなんて滅多にないので、ぜひ楽しんでもらいたい。僕はエピソード3で本当に息ができないほど圧倒された。

なお、本作はシーズン2の制作が決定しており、ストーリーに鑑みるとシーズン8くらいまで続いてもおかしくない(追記:シーズン7構想の模様)。シーズン1はほとんどプレシーズンというか、物語が本格的に動き始めるに至るまでの主要人物の過去が中心的に描かれている。なので、小説版もゲーム版も知らなくて問題ない。

ハリウッド作品のような分かりやすい目的達成型のストーリーを期待すると拍子抜けするかもしれないが、モンスターや魔法の存在する世界に生きるゲラルトたちの生き様/運命を垣間見るという姿勢で観てもらえればと思う。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます! もしよかったらスキやフォローをよろしくお願いします。