ぼっちゲーマーでいいんだよ――ぼっち肯定論あるいはC4 LAN観光記
「なんか俺って観光客みたいだな」と、C4 LANの会場でふと感じた。
どこかのコミュニティに所属しているわけでもなく、あるいは特定のタイトルに熱心なわけでもなく、ただeSportsやゲーミングに関心があるという理由で、PCもゲーム機も持ち込まずC4に遊びに行ったことは、実際観光のようだった。
行けば知り合いに会うだろうことは分かっていたが、参加者と積極的にコミュニケーションしたり一緒にゲームしたりする気はなかった(TwitchブースでCOMP鈴木さん×Twitchアユハさん×StanSmith×自分という謎配信に出たし、オオギさんとkokkenさんに誘われてゲーミング足湯マリオカートをプレイしたが)。
受付近くのAKRACING(実は初めて見た白がかっこよかった)に座ってスマホを弄っているだけで楽しく、C4の雰囲気に酔いしれていた。会場ではALIENWAREのマスクをかぶって写真を撮った。そうしたら後日、キャンペーンに当選してバスタオルをもらった。
愛用しているCOMPの鈴木さんに、COMPとスムージーやコーヒー、抹茶、ココアを組み合わせるとめちゃくちゃおいしいことを教えてもらったのはとても嬉しかった(いつだかe-sports cafeで話した某人物がそこでお手伝いしているとは)。2日目のマウス速ブリ選手権と最終日のドン勝大会の観戦は最高だった。
しかしながら、そうした時間よりぼーっとしている時間のほうがはるかに多かったのは事実だ。僕はまぎれもなく消極派であり、知らない人に理由も必然性もなく話しかけるなんて怖くてできない。それでも、C4はただいるだけで楽しかった。ほかのイベントとは違う空気があったからだ。
オフラインのゲームイベントは、特にeSports(ゲーミングでもどちらでも)系だと参加モチベーションを「コミュニケーションしながらプレイできる」といったことに設定する主催者が多い。それこそがイベントの価値だと信じて疑わない人もいるだろう。
それに比べると、C4主催者のtaharasanがインタビューで、そしてファミ通のミス・ユースケさんがレポートで言っていたように、「積極的にコミュニケーションする必要はない」という主張はまだ一般的ではない。消極派にとって「イベントに行って誰とも話さない」なんてことが起きたら自己嫌悪に陥り、恥ずかしくて死にたくなる。自分はなんてダメなやつなんだ、と。
その気持ちはよく分かる。だからこそ、消極派はイベントに参加したがらない。積極派が幅を利かせる会場で、絶対にぼっちになって浮いてしまい、涙を隠してこっそり帰る羽目になるからだ。分かる。taharasanとユースケさんはそうした消極派に希望を見出してもらうために前述のように話した。たしかにそれは心強い。
だが、そこには主催者の意向やイベントの主旨という「気まぐれ」以上の根拠がなく、普遍性がない。ごった煮のC4以外では通用しない。例えば、LoLのイベントで「同じタイトルをプレイしているからすぐ仲よくなれる、隣の人に話しかけよう」と言われてみたまえ。消極派には死よりも恐ろしい状況だ。
では、消極派/ぼっちはやはり1人であることを嘆かなければならないのか。イベントには参加できないのか。ぼっちはその境遇を覆せず自己嫌悪にまみれなければならないのか。
いや、そんなことはない。この記事で、僕は消極派/ぼっちに希望を見出してもらいたいと思っている。eSportsにはぼっちこそが必要なのであり、ぼっちこそが主役。なくてはならない存在なのだと。読み終わったあと、ぼっちの肯定こそがeSportsを支える価値の1つだと納得してもらえるだろう(引きこもりに関しても以前書いた)。
ちなみに、消極派/ぼっちは(eSports系の)イベントに参加したくないわけではない。知らない人と出会いたいし話したい。でも、怖い。相手にどう思われるか、嫌われないか、迷惑でないか、そういったことをものすごく気にする。そしてイベントに行けなくなる。ぼっち、1人であることをマイナスだと思ってしまうのだ。この記事は、ぼっちを異常なまでに気にしてしまう人に向けて書いている。
eSportsに横の繋がりはない
まずは大きな話をして、ゆっくりとぼっちへと下っていこう。
大前提として、eSportsが盛り上がるのはいいことだ。しかし、それは実際にどういう意味なのか。よく盛り上がりの指標とされる「eSports人口」というのは、端的に言えば、LoLやHSやCSGOといった各タイトルのプレイヤー人口を足し合わせた数でしかない。
サッカーと水泳とマラソンなどの人口を足して「スポーツ人口がすごい、盛り上がっている」と言ったところで何の意味もないように、eSportsと呼ばれるタイトルの人口を足し合わせることに何か深い意味があるわけではない。だが、eSportsという言葉は次第に力を持ち、個々のタイトルの人口を足し合わせることが当たり前になった。それがeSportsの盛り上がりの指標になった。個々のタイトルの人口が増えることにこそ意味があるにもかかわらず。
たしかに、eSportsの盛り上がりはその人口拡大を意味する。それは間違っていない。しかし、真に盛り上げるためにはeSportsと呼ばれる各タイトルの人口が増えなければならない。ここまでは容易に理解できる(理解できていないような言説も見受けられるが)。
では、日本ならSVの人口が900万DLと圧倒的に巨大だが、この数字だけがもっと増えてもeSportsが盛り上がっていることになるのか? それは明らかにナンセンスだろう。各タイトルのいずれもが言及に値する大きな人口(少なくとも数万規模か?)を抱えていなければ、「eSportsが盛り上がっている」とは言えない。
だとすれば、この世界にはSVやLoL、あるいはほかのタイトルがあるだけなのに、なぜわざわざeSportsという言葉を使うのか? 誰かがビデオ対戦ゲームをeSportsと呼び始めたからだ。各タイトルには何の相互関係もないのに(もちろん例外はある)。そして、なぜか各タイトルの人口を足し合わせてeSports人口とし、盛り上がっているだの盛り上がっていないだのと言い始めた。
CygamesとRiot Gamesは互いのタイトルを宣伝しないし、プレイヤーの時間とお金と人間関係を独占したいと思っている。いずれも限られている資源なのだから、両社の利益は明らかに相反する。そしてそれぞれのタイトルには独自のエコシステムがある。接点はほとんどなく、体面的には横の繋がりはない。
SVとLoLを一緒くたにして語ることは、それこそ野球とテニスを一緒くたにして語ることと等しい。各タイトルが(基本的に)独立していることは、それがまったく別のものであることの必然的な帰結である。SVの人口が増えることは、LoLにとってとんでもない機会損失だ。
しかし、eSportsという言葉は各タイトル、各企業を結びつけてしまう。つまり、ビデオ対戦ゲームとそのメーカーはeSportsという言葉だけで連帯しているのだ。いや、この言葉が生まれたせいで連帯せざるをえなくなってしまっていると言ったほうがいい。そしてその連帯がもたらす価値が、我々にeSportsに対して様々な希望を見出させる(特にその市場性や娯楽性に)。eSportsという共同幻想!
本当は存在しないこの幻想によって、本来は何の関連もないそれぞれのビデオ対戦ゲームはeSportsとして連帯してしまう。本質的には独立しているのに、SVとLoLはまとめてeSportsと呼ばれるのだ。
コミュニティにも横の繋がりは(必要)ない
各タイトルに横の繋がりがないなら、各コミュニティにもやはり横の繋がりが(必要)ない。
とあるタイトルに2つのコミュニティがあるとしよう。相互所属するプレイヤーもいるかもしれないし、交流会などで繋がりはあるかもしれないが、基本的に両コミュニティはルールや活動目的、活動時間が異なり、繋がっているとは言いがたい。SVのコミュニティとLoLのコミュニティであるなら言うまでもない。
また、ここでも個人が持つ資源は有限である。プレイヤーの人格と時間は1人分しかないため、複数のコミュニティに所属するのであれば、その人はどこにどれだけの時間やモチベーションを割くかについて考えなければならない。それぞれのコミュニティ(に注力している人たち)はできるだけ所属者が自分たちのコミュニティで過ごしてくれるように工夫するだろう。ゆえに、コミュニティ間には(通常は水面下の)プレイヤー獲得競争が存在する。
コミュニティ(に注力している人たち)が「ほかのコミュニティで活動してもいいけど、こっちにもちょっとは顔を出してほしい」と考える時点で、競争の場に乗り出していることになる。よって、コミュニティ同士は基本的には「繋がらない」競合関係にある――たとえそれを関係者が明確に意識していなくても。そして、繋がっていないことは正常な状態なのだ。
しかしながら、1つのタイトルを俯瞰したときには、2つのコミュニティは「そのタイトルのコミュニティ」としてまとめられる。実際には横の繋がりがないのに、つまり、コミュニケーションしていないのに連帯してしまう。この状況はeSportsにおける各タイトルの関係と、まったく同じ構造になっている。
あえて「(必要)ない」と表記したのは、見た目上にはコミュニティ同士のコミュニケーションは存在するが、結成と存続のために欠かせない条件ではない=必ずしも相互にコミュニケーションせずとも成立しうることを念頭に置いている。そう、コミュニケーションしたっていい。
プレイヤーはぼっちでいい
さて、ようやく議論が個人単位のレイヤーに降りてきた。
各タイトルは、eSportsの定義からしてオンラインでプレイできる。そのとき、家には1人。ゲーム中も、誰かに声をかけてチームを組む必要はなく、ボタンを押せばシステムが勝手にチームをマッチングしてくれる(SVならそもそも1人だ)。
まったく当たり前の話で面白くも何ともないが、各タイトルは積極的に誰かと繋がろうとしなくてもプレイできる。チームプレイはたしかに楽しい。しかし、それは別の話だ。メーカーがそれを強制しているわけではない。ソロで遊べるシステムがあるということは、間違いなくメーカーがプレイヤーの大半がぼっちである、またはソロプレイをしたいと思っている、またはチームを組むのが難しいということを認識しているからだろう。そのおかげで、我々は繋がらなくても楽しめる。ゲームも成立する(LoLではついにpingのミュートが実装された!)。
だが、各プレイヤーはそのタイトルやコミュニティの人口としてまとめられる(コミュニティに所属していることとぼっちであることは両立する)。それぞれのプレイヤーを足し合わせたタイトル人口は、売上と並ぶ重要な数字だ。タイトル人口はプレイヤーがぼっちであろうと関係ない。
要するに、プレイヤーたちはコミュニケーションしなくても「タイトル人口」として連帯してしまう。これはどういうことか。プレイヤーはプレイしていること、言いかえればタイトル人口の1人として数えられること自体に価値があるということだ。
プレイヤーはぼっちでいい。ぼっちであることが許されているのではない、そもそもeSportsは構造的にぼっちを肯定しているものなのだ。プレイヤーはぼっちであることを嘆く必要はなく、むしろ誇りにすることができる。
お気づきのように、タイトル同士が実は繋がっていないこと、コミュニティ同士が競争関係にあることは、この結論とは直接関係ない。アナロジーでしかない。しかし、eSportsの構造自体が誰が決めたわけでもなくぼっちを肯定していると思えれば、ぼっちにとって心強いのは間違いないだろう。
ぼっちでもそこにいるだけで価値がある
本題である。
C4 を始めとするイベントという場において、いかにぼっちは肯定されうるのか。前述のように、イベント(特にオフライン)はコミュニケーションすることこそ目的であり価値であるとみなされがちだ。ぼっちに生存権はなく、話しかけないことが悪いことのように思えてしまう。それを、taharasanとミス・ユースケさんは以下のように否定した。
taharasan: 物理的な意味ではそうですね。ただどちらかというと提供したいのは「雰囲気」です。どのゲームやろうがイベントやろうが、人と話そうが話すまいが自由。そんなフリーダムな空気を作りたいんです。(※ 話さない自由もあるので「自己紹介タイム」みたいなことは絶対やらないとのこと)
ステージを使って何かしたいのであれば、我々が実現できるようにサポートしますというようなことも提供します。そういった「空気感」です。
そういう意味ではスタッフもお客さんも一緒に作り上げていくイベントです。世界観としては「お客さん」という言葉はあまり使わないようにしていて「LANパーティーヒーロー」という言葉を使っています笑。「みんながヒーローなんだから、ヒーローにあるまじき行為をするなよ」「自分自身がイベントの主役・ヒーローなんだ」と。
「大規模LANゲームパーティ「C4 LAN」: 運営が語る本当の開催理由「泣けてきちゃった…」」より(EAA!!)
LANパーティーはコミュニティーベースのイベントだ。主催側が「これどうぞ、これどうぞ」ともてなしてくれるわけではないので、前のめりに楽しもうとする気持ちを大切にしたい。
その際、よく「ほかの参加者に話しかけてみよう」なんて意見が出るが、そういうのが苦手な人は無理をしなくていいんじゃないかなと思う。せっかく楽しくゲームしてるんだから、「輪に入らなきゃ」と変にプレッシャーを感じる必要はない。
「ゲームが楽しい」という意識はすぐに共有できる。そこにいるだけで少しうれしいものである。
「52時間ぶっ通しイベント“C4 LAN”はゲーム業界のフェスだった」より(ファミ通.com)
ぼっちにとって、希望にあふれた一言であるのは疑いようがない。これに確固たる根拠を与えるために、僕はここまで議論を進めてきた。前述の結論は、イベントにおいてももちろん当てはまる。
ぼっちはイベントに参加しているだけでいいのだ。雰囲気や空気を感じ、参加者でいること。他人とコミュニケーションする必要はない。主催者は参加者数を増やしたい。メディアは会場に大人数がいるところを撮影したい。そうした意味でも、参加するだけで価値がある。なにより「イベント会場に大勢の参加者がいる」、この事実こそが自分やほかの参加者、イベント関係者にとって大きな満足感に繋がる。
すぐ近くに同士、仲間がいる。話しかけるのは怖いけれど、イベントに参加していることから話さなくてもそれが分かる。同じゲームをプレイしているのだから、オンラインでたまたまマッチングするかもしれない。
そう思えるだけでイベントに参加する価値があるだろう。当然、イベントに対して何らかの責任を負う必要もない。無理にイベントを盛り上げようとしなくていい。雰囲気を楽しみながらただそこにいればいい、参加者として。
ぼっちはコミュニケーションせずに連帯することができる。コミュニケーションに関する問題が無限に生じている現代において、これほど希望に満ちた連帯はない。ぼっちはけっして孤独ではないし、それは十字架でもない。
最初に述べたように、ぼっちは別にイベントに参加したくないわけではない。むしろ、コミュニケーションに積極的な人と同じくらい、参加したいという強い気持ちがある。だが、通常はその気持ちを恐怖が上回ってしまう。いまこそ呪縛を解き放つときだ。
ターミナル駅としてのC4の可能性
イベントに参加してもコミュニケーションしなくていいと強調したが、もちろんしてもいい。大事なことは、イベントが積極派と消極派=ぼっち、両者の立場が成立する場として開かれているかどうかだ。
イベントで積極派は他人とコミュニケーションして繋がろうとする。いいことだ。だが、そこにぼっちがいることでその活動が遮られることはないし、逆に可能性が広がるとさえ言える。
なぜか。ぼっちは話しかけるのが怖くても、話しかけられるならOKと考えているからだ。つまり、話しかけたい積極派と話しかけられたいぼっちがいる。すばらしい。そこには「偶然の出会い」が生まれる余地がある。偶然の出会いからは、何か新しいことが生まれてくるだろう。それをここではイベントがもたらす希望と呼んでおこう(当然ゲーム/eSportsイベントに限らない)。
どちらかと言うと、僕も人に話しかけられないタイプだ。だが、コミュニティーの輪に入ったら楽しいだろうなーという憧れもある(今回はYamatoN石油王コスプレのおかげで少し話せた)。
僕と同じタイプの人は多いと思う。ということは、“輪に入りたい人見知り”と“仲間を増やしたい世話焼き”を見分けられるようにしたらWin-Winの関係を築けるのではないか。機会を見つけて、そういう缶バッジを作って配布したい。
「52時間ぶっ通しイベント“C4 LAN”はゲーム業界のフェスだった」より(ファミ通.com)
C4は偶然の出会いが生まれる場であることに大きな価値がある。普段は交わりもしない各タイトル、各コミュニティの人たちがただなんとなく集まり、あたかもターミナル駅のような場を作り出す。すれ違うだけの人もいるだろうし、話しかけたり一緒にゲームしたりする人もいるだろう。いろんな人と少しだけ話す人もいるだろう。
ゲームコミュニティやプレイヤーが普段住んでいるそれぞれの村から様々な路線を通ってやってくるターミナル駅としてのC4。全員が観光客だ。イベントが終われば、みんなはまた自分の村へと帰っていく。だが、どこかで手紙のやり取りが始まる可能性がある。その手紙がどこか別の村に届くかもしれない。
僕はC4に参加した自分が観光客の気分だったと最初に書いた。それはC4をターミナル駅のように感じたからだった。観光客は、現地の人ともほかの観光客ともコミュニケーションする可能性はあるが(つまり、偶然の出会い)、まったくしなくてもいい。淡々とその土地の雰囲気を味わうだけで成り立つ。最低限の会話で充分。
僕がC4で心地よさを覚えたのは、taharasanやミス・ユースケさんが言うまでもなく、コミュニケーションしなくてもいいという暗黙の了解が会場内に漂っていたからだろう。そしてそこには、偶然の出会いが生まれる可能性も存在していた。
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