【哲学】「上手い」とはなにか②【オリジナル対話篇】


ソクラテス: そうだね、特に変なことを言っているようには感じないね。感覚は人それぞれではあるけれど、それは概ねであり、つまり100%全くに人それぞれに違うわけではなく、50%なのか、30%、80%なのか、その程度はわからないが、土台として共通の感覚が存在し、その上での違いということでいいのかな?「人それぞれ」という言葉の意味は。

ポプ: そうですね。まさに、そういうことです。その%の度合いも、人によって違うのでしょう。平均的な感覚と似た感覚を持っている人もいれば、そこから大きく離れた人もいるでしょう。いずれにせよ、全くに人それぞれなのではなく、多かれ少なかれ、ある程度、根っこの部分で共通認識があるということです。

ソクラテス: ふむ。では、「『上手い』とは何か?」という問いに戻ろう。君は、迷いながらも、それは人より秀でていることだ、と言ったね。

ポプ: 言いました。が、確証はありません。なんとなくの感覚で言っているのです。

ソクラテス: 常識の範囲内での話なのだから、なんとなくの感覚でもかまわないのではないかな。では、その考えをもう少し掘り下げてみよう。「上手い」は人より秀でていることであり、そして同時に、その様態は、人によって多少受け止め方が異なるが、概ねの感覚として人々の内に共通して存在している、と。

ポプ: はい。

ソクラテス: 概ねの共通感覚とは、我々ひとりひとりが持っている感覚のうちの、他人と共通する部分、という理解で良いのかな?

ポプ: えっと、そうですね、それで良いです。

ソクラテス: ある程度とはいえ、共通の感覚が存在するからこそ、意思の疎通というものが行えもするのだろう。熱いお湯に手を浸せば、大体の人が熱いと感じるという、ただそれだけのこととも言える。

ポプ: そうですね。

ソクラテス: 我々は、ひとりひとりがそれぞれに異なった感覚を持っているとはいえ、それは個人の感覚全体を見たときの一部分にすぎず、別の部分では共通した感覚も確かに持っているのだ、と。その、他人との共通部分が大きい人もいれば、小さい人もいる、と。他人との共通部分が小さい人は、いわゆる変わり者であり、風変わりな趣味を持っていたり、話がなかなか噛み合わなかったり、と、そういった人なのだろう。

ポプ: そういうことですね。

ソクラテス: もし、それぞれの人々がもつ感覚が、この共通認識(共通感覚)で100%満たされていれば、それは、誰もが全く同じように感じる、ということだよね。ところが、実際には100%ではなく、もっと低い度合いなので、人々は全く同じように感じるわけではない。かといって、全くに100%異なるわけでもない。全く同じではないが、全く異なるわけでもない。ということは、それはすなわち、人々の感覚は似ているのだと言っていいのかな?

ポプ: 似ている、ですか。まあ、そうなんですかね、そういうことだと思います。

ソクラテス: 世の中には全く同じ人間はいない。全く同じ感覚を持つ人間はいない。しかし、程度の差こそあれ、人々が持つ感覚は似ているのだ、と、そう言えそうだね。では、ここで、ある作品を「上手い」と感じる人と「下手」と感じる人がいる現象を再び考えてみよう。この現象はすなわち、その両者の感覚があまり似ていないということだと言えそうだね?

ポプ: ええ、そう言えるでしょうね。感覚がかけ離れているということです。

ソクラテス: 人々は一般的にある程度共通認識を持っているが、その作品を対照的に批評したその両者は、その作品についての感受性において、共通認識をある程度欠いていたのだ、と。だから、大きく異なる感想が出てくるのだ、と。両者は、似ている度合いが低かった。ここで、思い出したいことがある。人それぞれであることは、人によって感想が、全く無秩序に乱立するというわけではないことだ。ということはだよ、人々は、皆がある程度似ている、と、そう言うことができるのではないかな?

ポプ: 人々は皆がある程度似ている……?んん、まあ、そうだと思いますよ。そもそも、共通認識を持っているということが、その時点で、それがすなわち、その分だけ似ているということでしょう。

ソクラテス: とすれば、問題なのは、どの程度似ているか、ではないか?

ポプ: ほう。

ソクラテス: ある作品に対する「上手い下手」の感想あるいは評価で意見が割れたのは、両者の感覚の似ている度合いが低かったからだ。世の中の人々は、より似ている人同士と、似ていない人同士がいるということだ。ま、それぞれの個人個人の組み合わせという程度の意味で言っている。

ポプ: 似ている人同士、似ていない人同士、と言えば、その通りだと思います。当たり前の話だと思います。

ソクラテス: ある作品について、評価(感想)が全く無秩序に乱立することはないということであった。それは、人々には共通感覚があるからであり、つまり、人々は多かれ少なかれ似ているからだ、ということだった。ある作品の評価が全くに無秩序に乱立するのではないというのはどういう状態かというと、その作品の評価において、概ねの傾向や一致が見受けられるということだ。そして、それが、人々が似ているという、まさにそのことなのである、と。

ポプ: そうですね。

ソクラテス: とすると、だよ。ここで面白い考えに到達したように思うよ。先の、ある作品に対して、二人の人が互いに正反対の感想を述べたことについてだが、この二人のうちのどちらかは、世の中の人々の概ねの傾向から、より外れているのではないだろうか?

ポプ: あ、そうですね!そうかもしれません。

ソクラテス: 先の例は、「上手いか下手か」という、単純に白か黒かの問題であった。そして、人々一般の意見は全くに無秩序に乱立するのではなく、ある程度傾向を伴うということであった。とすれば、先の両者の相反する感想は、客観的に見た時、全く等しく肩を並べて意見を主張しあう性質のものというよりは、どちらかというと、客観的な人々の感想における傾向に対して、より沿ったものとより沿っていないものの二つなのだと言うことができるのではないか?そして、そうなのであれば、その二人のどちらかの意見は、多数決・民主主義的な観点からキツい言い方をしてしまえば的外れである、あるいは、少なくとも、その人は変わり者であるのではないかね。つまり、二つのその対照的な意見は、より一般的な意見と、より特殊な(個人的な)意見である、と。

ポプ: そんな気はしますね。

ソクラテス: 作品に対する感じ方は人それぞれだが、人は皆ある程度似ていて、その限りにおいて、客観的に大勢となる意見が存在する。意見が全くに均等にバラつくのではない。それはすなわち、より客観的な意見と、より個人的な意見の二つが相対的に存在することだとも言える。人の感じ方はそれぞれだが、それらは均質に異なるのではなく、客観的に見て、より理解できるものと、より理解し難いものがある、というわけだ。

ポプ: まあ、当然のことだと思いますよ、それは。

ソクラテス: あれは「上手い」作品だ、だとか「下手」な作品だ、とか主張される意見の中には、より客観的なものと、そうでないものがある、と。では、客観的には「下手」だと言われる作品が、一部の熱狂的なファンから「上手い」と言われている事例を考えた場合、この作品は上手いのだろうか?

ポプ: その作品は、客観的には「下手」、あるいは多くの人にとっては「下手」であり、一部の人にとっては「上手い」のだという、文字通りの、ただそれだけのことでしょう。あえて言うならば、それをただ「上手いのか?」と抽象的に問うことが的外れな気がします。

ソクラテス: ほう、それは的外れだろうか?君はいま、客観的には「下手」だが、一部の人の主観的には「上手い」のだと、そのようなことを言ったね?

ポプ: 言いました。

ソクラテス: 君はここで、「上手い下手」に条件をつけたようだ。特に、一部の人の主観に拠れば「上手い」のだ、と。これまでの話では、「上手い下手」は、人々の共通認識に基づくということであった。それは、別な角度から言えば、全くに無秩序に感想が乱立するのではない、と。とするとだよ、一部の熱狂的なファンの人々の主観というものは、大勢の人々が持つ共通認識の埒外にあるものなのではないのかね?

ポプ: ん、えっと……。

ソクラテス: 君は、一部の人々にとっては「上手い」と言ったが、それは以前に君が言っていた、「上手さ」には全くの指針がないのではなく、人々の共通認識にその感覚が立脚しているのだという考えと矛盾するのではないか?なにしろ、一部の人々だけが持つ感覚とは、まさに共通認識の外側の感覚であり、その感覚に基づいてものを主張し始めてしまえば、誰もがなんとでも言えてしまうではないか。「上手い」も「下手」も、各人が全くにバラバラに主張する無秩序になってしまう。

ポプ: あぁ……うーん。でも、少数派なら少数派で、小さいながらも勢力があるなら、それは主流の感覚と比べて相対的に非共通認識なだけであって、それはそれで一種の共通認識であるような。

ソクラテス: なるほどね、それはそうかもしれない。では、もし、主流派のする「下手」だという主張と反する「上手い」という主張をするのがたった一人の人物だった場合は?

ポプ: それは……その作品は「下手」なんでしょうね。あるいは、その人物だけにとっては「上手い」のだという。

ソクラテス: どっちだ?

ポプ: え……。

ソクラテス: それに、その人物だけにとっては「上手い」というのは、まさに、人々の共通認識から最も外れた感覚なのではないか?

ポプ: あ、そうかもしれませんね。

ソクラテス: ある個人だけが感じられるような特有な感覚は、それはそれで確かに存在するかもしれない。しかし、これまでの話からすると、「上手い下手」は全くに人それぞれのものなわけではなく、共通認識としてある程度人々に共有されているということであった。とすれば、たった一人の人物が、統計で言うところの外れ値のような存在として、極めて個人的な感覚に基づいて「上手い」と主張し、それが多くの他人一般の共通認識から外れているというのであれば、その作品は「下手」なのではないか。違うか?

ポプ: そ、そうかもしれません。

ソクラテス: 君は、その人物ひとりにとっては「上手い」のだ、と条件付きで言ったが、それは一種の屁理屈、ないしはその人物に対する慈悲かなにかなのではないか。「上手い下手」が全くに個人の感覚に委ねられるわけではなく、人々の共通感覚に基づくのだという君の主張に則れば、その人物にとってだけ「上手い」というのは、一般的に言うところの「下手」なのだということになりそうだ。そして、個人の感覚ではなく共通認識こそが「上手い下手」の在り処なのであれば、一般的に「上手いか下手か」がすなわち「上手いか下手か」の全てであり、個人の判断、正確に言えば共通認識の埒外にある個人的な感覚に基づいた判断は、「上手い下手」とは関係がない。つまり、君の主張は、たった一人の人物だけが「上手い」と主張するその作品を「下手」だとみなすことになる。

ポプ: ……うん〜、まあ、その一人の人物しかそれを「上手い」と言わずに、客観的に大勢の人が「下手」だと言うのであれば、それは下手なんでしょう。

ソクラテス: とすれば、その少数派の人口が、たった一人の人物だけではなく、もっと多くなったとしても、共通感覚の内か外かという点で見れば、本質的に同じであると言えないか?つまり、少数派がある程度の規模の大きさを持っていたとしても、それが少数派である以上、それはすなわち共通感覚からその分だけ外れているわけであり、その外れた分だけその作品は「上手さ」から離れており、それを少数派が敢えて「上手い」と言っているにすぎないのではないか。なぜなら、君の主張に基づけば、「上手さ」は共通感覚のなかにあるからだ。少数派になればなるほど、共通感覚から外れ、すなわち、「上手さ」から離れていく。あるのは少数派である度合いの違いだけだ。少数派になるほど「上手さ」から離れ、多数派になるほど「上手さ」に近づく。とすると、それはすなわち多数決ではないか?

ポプ: 多数決 ……。

ソクラテス: もし多数決でないというのなら、それは、どんなに少数の者が、たとえたった一人であったとしても、多数派に反して「上手い」と主張していたら、それは「上手い」かもしれないということになるではないか。しかし、「上手い」かどうかは人によるのではない、共通感覚によるのだ、というのが君の主張であった。

ポプ: その人にとっては「上手い」とか、その少数派にとっては「上手い」というのではダメなんですか?

ソクラテス: そうすると、それは、君が当初に言っていた、人々が共通して体感できる感覚の外にある感覚で「上手い」と言うことになってしまうではないか。その人にとって「上手い」、彼らだけにとっては「上手い」と言い出したら、どんなものに対してもいくらでも「上手い」と言えてしまうではないか。他人と共有しない、ごく個人的な感覚に基づいてものを言うのだから。それはつまり、「上手い下手」の感想が無秩序に乱立することに他ならない。君は当初、感想が無秩序に乱立するなんてことはなく、人々の認識は、ある程度は一致するものであり、そのような、一般論として主張できる類のものを「上手い下手」と言っていたではないか。

ポプ: そ、そうですね……。

ソクラテス: 君の当初の考えによれば、「上手い下手」の感覚はどちらかというと個人的なものではなく、一般的なものである。なので、誰々にとっては「上手い」というふうに、条件付きの特殊な場合においては「上手い下手」を言うことができないのだ。なぜなら、それは共通感覚に背くものだからだ。君の当初の主張によれば、そういうことになる。

ポプ: 確かに……。

ソクラテス: そうすると、ある作品をある個人だけが「上手い」と主張していても、それは一般的に「上手い」わけではなく、また、ある少数派が「上手い」と主張していても、それもまた、多数派である共通認識に反するひねくれた考えにすぎず、一般的には「上手い」わけではない、というわけだ。個人が主張してもダメ、少数派が主張してもダメ。となると、一般的な「上手い下手」は結局、多数決で決まるのではないか。違うだろうか。それが君の言いたかったことで合っているか?

ポプ: 待ってください。少し考えさせてください。


(つづく、かも。つづかないかも)

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