自作詩を自己講評する
ここしばらくまともにnoteをやっておらず、詩作からも離れていました。久しぶりに自作の詩を読み返してみると、書いた当時と違った見え方がしたので、これを機に、自作の反省をしてみる。
自作講評自体は、前々から、いつかやってみたいと思っていたんだけど、ちょっと面倒だし情熱も失われつつあるしでやる機会を持てないでいた。自分では、かなり興味深い講評が書けるのではと思っていたんだけど。
今回取り上げるのは、僕が自分的に最も力を入れている「☆シリーズ」の詩。題の横に「☆」のついたもの。『朝☆』などのように。
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『朝☆』について。
まずはこれ。最近のものから一つずつ遡って見ていこうと思う。
この詩は、冒頭から造語が連発されている。いま読むと、これがとても読むに堪えないものだと気づく……。
「束前」と「土枕」が造語(追記: 「拝上」も造語でした)。架空の熟語であり、検索してもヒットしない。なぜ「架空の熟語」を採用したかを思い返してみると、いくつか理由がある。まずは、ぱっと見で「なんとなくの雰囲気」を出すため。つぎに、知らない単語が出てきたときに読者がどう対応するのかを試すという謎の意図があった。ちゃんと調べるだろうか?的な……。そして最大の理由は「冗談として」というものだった。いまわかるのは、これが最大の問題であることだ。それは、
この冗談、はたして伝わるだろうか?というもの。架空の熟語を用いたとき、それを誤字と指摘される可能性さえある。そもそも、冗談とは言っても、どこに面白味があるのか?それには客観性があるか?客観性はどの程度あるか?など、厳しい問いが続出する。
冗談として詩を書くことの難しさは、書いた当初から感じており、なんとなく書いてみはしたものの、なんだか上手く着地できていないような居心地の悪さがあった。冗談として書くなら、それが冗談であることが明示されれば客観的に見ても内容が成立すると思い、実際にそういう工夫を施した詩篇もいくつか書いており、順次振り返る予定。
詩に限らず、冗談であることが伝わるかどうかは、かなり難しい問題である場合が結構あると思う。しかしその話はもう割愛する。
僕が書いた「☆シリーズ」の詩は、「小難しい言い回しをしておきながら、書かれてる内容はまったくの出まかせ」というのがコンセプトなのだ。このことを読者に直接断りさえすれば、多少は読めたものになるだろうか。いや……
それも難しい気がする。『朝☆』の場合、架空の熟語如何に関わらず、「金剛力士の束前に比例する砂丘」「そのしたたかなる音の劣情が島をなし」と、言ってることがメチャクチャで、なおかつ、別に面白くもない。「〜比例する砂丘」がいかにも適当だし、「そのしたたかなる音の劣情」も、意味も示唆も感じさせないだけでなく、薄ら寒ささえあり、難なくボツとなる内容だ。いまの自分的にはそう考えられる。
『朝☆』は、架空熟語のせいでクオリティが低く、また、冗談であることも伝わりにくく、従って成立しておらず、詩作品としての価値に乏しい。「なんか適当なこと言って」と頼まれて出てきたかのような内容以上の意匠が見出せない。実際、そういうふうな意図でしか書いていないはずだし。
『朝☆』は相当な駄作でした。はい。
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『一致☆』について。
次に、やっぱり、投稿順序を無視して、『一致☆』を見てみたい。というのも、この詩篇には、いまの自分から見ても面白いと思えるくだりがあるからだ。
それは冒頭の第二文。「ーー隣り合わせの王国のようにーー矛盾の輪郭を見事に一致させた」という表現。「矛盾の輪郭を一致させる」というのは、なかなか面白い。そう思わない?それも「隣り合わせの王国のように」と、物理的なイメージも伴い、「輪郭」という言葉が唐突に無理やり登場したわけでない点も良い。これは、自分の感覚では、面白い表現のように思える。あなたはどう思いますか?
ただ、しかし、冒頭の第一文目「現代に俺が一致する。」が、だいぶ茶番というか、適当だな〜というか……。めちゃ悪いというわけではない。でも、文脈もなく、その後の展開からしても、この第一文にほとんど意味がないことは見え透いてるし、では、じゃあ、抽象的なお遊びの表現というつもりらしいと読者が汲んだとしても、まあまあレベルといったところでしょうか……。そもそも、抽象的なお遊びという意図の時点で、詩としての価値はだいぶ小さいと考えられるし。素人の抽象画に近い。落書きとなにが違うのか、意匠はどこにあるのか、技術はどこにあるのか、面白味はあるか、これらの質問に太刀打ちできない。
続いて「矛盾の輪郭を見事に一致させた!拍手!博士!」の「拍手!博士!」の部分について。これが、先に書いた「この詩が冗談であることを明示的に伝えるための一案」なのだ。面白いかと言われると……ちょっと面白い。でも、ちょっとだけ。薄ら寒さ・スベりと紙一重。紙一重と言っても、僕が書く表現のなかでは、むしろ、まだスベってない方かもしれない。ダダスベりしてる言い回し、他にたくさんあるから……。
次に「壁の手形に一致した思想に列車が突き抜ける、」の部分。これを面白いとみるかどうかの問題……。「壁の手形」は唐突に出てきた言葉で、意味があるのか、それとも前提となる事情があるのか、ということだけど、見たところ、大した意味はなく、ナンセンス色の強い、適当なデタラメ表現の域を出ない。これが面白いかということだけど……。「それは面白いのか?」という問いは、非常に根源的な問いだと思う。昔のフラッシュアニメで「いばぁらきぃぃぃ」「ちば、しが、さが」と言うやつがあるんだけど、例えばあれが面白いかというのは、結構哲学的な問いでもあると思う。まぁ、大人があれで笑うかどうかをさておくなら、あれは確かに面白いのだと思う。単語の響きが持つなんとなくの印象を、面白おかしい言い方で表現したもの(音声自体はプロの芸人のものらしいし)であり、そこにわりと普遍性があって「なんかわかる」という共感が笑いに繋がっているというか。例えば、他にも、「バナナ」を英語風に「バナーナ」と言うだけで、例えば小学一年生とかは笑うでしょ、きっと。それを考えてみれば、「壁の手形に一致した思想に列車が突き抜ける、」は、大人が読んで面白いと思うほどのものではない、というのが一応結論だろうか。この部分に関しては、冗談であるかどうかも、特にわかりにくくなってるし。
「いかなる理屈も文学であった」は、わずかに面白い。部分部分で見ると、多少の見どころはあるけども、それにしても、全体の整合性がなく、意匠としては頼りない。落書きの域を出ない。
「魚のようにスマートだ。
画面のように寛大だ。
虐げられた道。」
この三行、第一文は、冗談を言ってることを明示的に伝えにきてる。まあスベってるけど、ご愛嬌というところなんでしょうか。知らないけど。ただ、次の第二文「画面のように寛大だ。」が、結構寒くて、ちょっと嫌だ。今だったら、じゃあ、なんて書く?「畑のように寛大だ」は?多少マシになったか……?逆に退屈になったか。「画面のように」というのが、ちょっと厨二病が入ってて恥ずかしい。しかし、次の第三文「虐げられた道」が突然つぶやかれるのが、今の自分的に、なぜかツボってしまった。なぜかわからないが、面白く感じる。急に、なんだか文学的で、いかにもありそうな表現が出てきたからだろうか。「虐げられた道」という言葉それ自体も、結構面白い気がする。なんだか想像をかき立てるような。
「俺がトマトな理由がわかるか?」これは、安易なアイデア。全然つまんないですよ。
「ああ、おびただしい数の王国」
「服を着た論理が、」
ここら辺はちょっと面白いかも。
全体的に、冗談として受け止められる内容というよりは、抽象的かつ極めて難解(あるいはナンセンス)で人を突き放す気難しさをとりあえず咎めないでおくとすれば、ミステリアスな内容でシリアスに興味を引くような印象がある。シリアスとはいえ、意味はといえば、取るに足らないものばかりと言える。ここらへんの、極めて独自で勝手な塩梅を、いったい誰が(どんな読者が)受け入れるというのかという問題になる。
「一文字の欠片をお前に譲る。」これなんかを見て、面白いと思うだろうか。普通に常識的に考えれば、意味もないし、くだらなくて、取るに足らない無価値な表現だよね。でもさ、例えばだけど、ネットで見かけた話で、音楽の先生に古い原始的な電子音のゲーム音楽を聴いてもらったところ「これは音楽ではない」と全く認めてもらえなかったというのがある。あのピコピコ音。たしかに、伝統的な音楽と比べれば、ちゃんとした確立されて洗練された楽器による音色なわけでもないし、まさに邪道なんでしょうけど。だけど、それを楽しんでる人もいるよね。
「一文字の欠片をお前に譲る。
この王国は明日にはもう消えている。
物語は一致したがっている。
轍に。夢に。アライグマに。
北極の大三元!」
ここら辺は、冗談であることが程よく伝わる内容だと思う。「アライグマ」と、「北極の大三元!」の部分でわかる。「いや、なに言ってんだよ」とツッコむべき内容だから。
「この王国は明日にはもう消えている。
物語は一致したがっている。」
これは、部分としては結構面白いのかなという気はする。ただ、繰り返すけど、全体的に、部分の集合にすぎず、全体としての意匠というか必然性が皆無なのが弱い。
『一致☆』は、『朝☆』に比べたら、まだマシなような気はする。他の詩篇を見ると、もっといろいろ思うところがあるけど、今回は一旦これで終わり。
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