文学

生活を書けばエッセイになり、人生を書けば文学になる。

適当に言った。考えてみると、俺は感傷に興味がない。文学というタグで検索すると、なんだか感傷的な物が多く、文学ってこういうもんなのか?と、嫌味なく質問したくなる。俺の文学はいつも熱量を持っていた。熱病とも言える。幸福でないところに居る者が持つ、人生に対する意志である。俺は語り手に手腕を求める。お前の言葉が道しるべにならなければ、お前の文章は俺には読むに値しない。お前という存在が芸術でなければ、人生という難問にどう太刀打ち出来るというのか。そして俺は、俺の納得する手腕を持つ語り手など、どこにも存在しないのだと気が付いていった。俺の人生に決着をつけるのは、俺自身なのである、と。そうして俺は、本を読まなくなった。

俺にも、しおらしくも作家を尊敬していた時代がある。少年時。俺は世間の評判から、書物を手に取った。しかし、俺は頭がいいのだ。俺は自分が、内容に対して無思考になり、ただ巨匠と言われる作家だからと、理解もしなければ面白いと感じもしない本をただ文面だけ追い、その表面的な行為の事実を、何か自分の強みにでもしたつもりになって居る事に、つまり権威主義に陥っている事に、程なくして気がついた。そこから俺の苦悩が始まった。そこから俺の才能が始まった。「内容があるってどういう事だろう。」

noteには、そもそも、案外純文学が少ないかもしれない。正統派エッセイは、これでもかってくらい有って、嬉しいのだが。改めて思えば、純文学は、物書きの界隈でも、マイナーな部類なのかもしれない。俺自身はといえば、無論、純文学である。俺は、エンターテイメント小説は、一部を除いて、基本的に一切読まない。その一部とは...言ってしまおうかな、ハードボイルドである。あれ、めちゃくちゃ面白いよ!ただ、俺はチャンドラーは好きになれなかった。だってあいつ感傷的なんだもん。じゃ、何が好きか?ま、それはいいよ、置いておこう♪ハードボイルド小説っていうのは、主人公が行動として直接に手腕を発揮するから、読んでて気持ちがいいんだ。ヒーロー物と言える。

純文学キャラちょっと飽きてきたよ。文学ってのは、必ずしも「本」のことではない。「自分自身」をも含めて、最も身近にあるファンタジーである。人生の事が描かれていて、そしてそれは、人生以上に人生らしい。俺が今こうして語るずっと前から、俺の人生は常に文学であった。

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